2022年01月30日「健やかに成長する教会」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。コリントの信徒への手紙一 12章12節~27節

原稿のアイコンメッセージ

滋賀摂理教会では2022年の年間標語として「健やかに成長する教会」、年間聖句として「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(コリントI 12章27節)」を掲げることとしました。

私たち自身の体を思い浮かべてみるとよくわかりますが、私たちの体は全体で一つです。一つでありますが、例えば足や、手や、耳や、目などはそれぞれに全く違う働きをしています。けれどもこうしたものがバランスよく絶妙に配置されて、それぞれの働きをすることによって、体は健康に、健やかに機能します。各部分が体全体のために働くことによって、一つの命に結びついています。同じように、私たちも一人一人には多様な賜物【カリスマ=この場合は聖霊を通して与えられた特別な能力】があり、果たす役割は多様ですが、全ての人は同じ命に結びついています。

このようにパウロは、教会を一つの体に見立てて論じます。しかし単に教会が体に似ているというだけではありません。パウロは12節で「キリストの場合も同様である」と言います。つまり、教会は“キリストの”体であると言っているのです。

私たちは皆、罪に死んだ者でありましたが、「皆、一つの霊を飲ませてもらいました(13節)」。聖霊なる神様の働きによって、キリストに結び合わされ、神様と共に生きる者にされたのです。全く違った背景、能力、性格をもった私たちが一つとされているという根拠は、皆がキリストに結び合わされているという点にあります。神様は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれました(18節)。神様は、様々に違った賜物をもつ私たちを用いて、一つの体とされたのです。

この手紙はパウロがコリント教会に宛てて書いたものですが、コリント教会について言えば、特定の霊的賜物をもつ人たちが、それを誇りとしていました。その結果、同じ賜物をもたない人が劣等感をもって「わたしは価値のない存在だ」と落ち込んでしまいました。しかしパウロはそのような人たちを励まします。体には手も足も必要であり、目も耳も鼻も必要です。各部分はそれ単体では結局何もできません。互いを必要としているのです。誰も「自分はいなくてよい」と劣等感を抱くことも、「お前は要らない」と高ぶることもできません。

このように、教会に必要のない人は誰もいません。誰もがキリストの体の一部を形作っています。体のどこか一つの部分が病んでしまえば、その部分だけの問題では済まず、体全体の健康が損なわれます。反対に、ある部分が健康で調子のよいときには、体の全体は豊かにされるでしょう(26節)。

私たちは一つのキリストの体を形成しています。体にとって大切なことは、健やかに成長・成熟していくことです。そのために、私たちが同じ命のために目的を持って歩むことが大切です。教会の頭はイエス・キリストです。そのことをはっきりと私たちの心に抱いて、主イエスが成し遂げてくださった恵みを何よりも喜んで歩みましょう。そして今、一人一人が、与えられている賜物を見つめて、イエス・キリストの福音のため、できることから励みましょう。