2022年01月16日「人はパンだけで生きるのではなく」
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人はパンだけで生きるのではなく
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 4章1節~11節
聖書の言葉
1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」
7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。マタイによる福音書 4章1節~11節
メッセージ
イエス様は荒れ野で三つの試みをお受けになりました。その第一のものが3節です。
3節「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」。
これは、イエス様が40日間、昼も夜も断食をされた、その空腹につけ込んだ試みです。イエス様のあった誘惑は、「パン」つまり「食べる」という、極めて日常的な必要に訴えかけるものでした。そのことからわかりますように、悪魔の誘惑とは、一目見て「これは悪魔だ」とわかるような顔をして出てくるのではなくて、悪魔を悪魔として認識できないような姿で、巧妙に人を罪へと誘うものです。
食べ物に関する奇跡で言えば、後にイエス様は、パン(と魚)を増やして5千人の空腹を満たす奇跡を行います(マタイ14章他)。ですからイエス様は当然、このような奇跡を行う力を持っておられたはずです。でも、この時は、石をパンに変えることをされませんでした。なぜなら、それは神様を試そうとすることだからです。神様が与えてくださるものを疑うことだからです。神様が与えてくださるものを信じないで、神様から独立自給して生きようとすることだからです。
これに対して、イエス様は旧約聖書を用いてお答えになりました。4節「イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」。これは申命記8章3節です。この後イエス様は第二、第三の誘惑に対しても旧約聖書を用いてお答えになりますが、全て申命記の御言葉でお答えになります。
人は、パンだけで生きるものではない。確かに、人は、食べるものがなければ生命を維持することができません。しかしながら、神様の祝福がなければ、食べ物も、またそれによって支えられるこの命も虚しいものです。その意味で、まことに人は、「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」と言うことができます。
同時に忘れてはいけないことは、「食べる」という私たちの日常の必要を満たしてくださるのは他でもない神様であることです。私たちもまた、イエス様が教えてくださった「主の祈り」を祈りますが、その中に「日用の糧を今日も与えたまえ」とあります。結局のところ、神様がパンに「栄養があるように」と言っておられるからこそ、それによって生きることができるのです。私たちが何気なく食べているものも、神様が「これを通してあなたが生きるように」と言っておられるからこそ私たちは生きるのであって、その意味で私たちは確かに「神の口からでるひとつひとつの言葉」によって生きている。神様の御心によって生きているのです。その神様の祝福を見失ってはならないのです。
イエス様がここで誘惑をお受けになったのは、神の御子イエス・キリストが、ご自身を低くされ、私たち人間が経験しなければならない誘惑や試練をお受けになったことを意味しています。このようにして私たちの弱さを知って、ご自身がすべてを引き受けてくださったイエスこそ、わたしたちを本当に救うことができる唯一の救い主なのです。