2022年01月09日「イエスの洗礼」
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イエスの洗礼
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 3章13節~17節
聖書の言葉
13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。マタイによる福音書 3章13節~17節
メッセージ
ここにはイエス・キリストが人々の列に混じって、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事が記されています。
そのとき、天が開いて、神の霊が鳩のように降り、神の御声が聞こえてきて、「このイエスこそ、神の御心にかなった神の子だ」と宣言されたのです。
こうして神様によって、その救いのご計画を実現する器として、イエス様が決定的に選ばれ、その働きに任命されたわけです。
天から聞こえてきた声は聖書の通りに記すと17節の「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」です。これは次の二つの旧約の御言葉を思い起こさせる言葉です。
ひとつは詩編2編7節です。こういう言葉です。
「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ』」。
この詩篇はイスラエルの歴史の中で、王が即位するときに歌われた詩編です。王が即位するとは、神様が王を立ててくださったことに他なりませんから、その王の即位に際して神様が「これはわたしの子」だと呼びかけるのです。それは、神様によってその人が王の位(くらい)に就かせられることを意味しています。
もうひとつの旧約の御言葉は、イザヤ書42章1節です。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。」
イエス様が洗礼をお受けになった時、先ほどの詩編「王の即位」に際して歌う詩編と、このイザヤ書42章とが、重なり合って聞こえてきます。それは、この言葉を用いるマタイにとっては、この御言葉こそが、救い主であるイエスがどのようなお方か、どのような性格のお方かを言い表したものであるからです。イザヤ書においては、「見よ、わたしのしもべ」と言っていますように、主のしもべについての預言です。民を救うために来られるメシアについて、しもべの姿として語っています。
先ほどの詩編で描かれた「王」としての姿、そしてこの「しもべ」としての姿。この両者は矛盾した概念であるかのようですが、この両方の姿を持ち合わせて登場するのが救い主、メシアなのです。
なぜなら、このメシアは、神の御子でありながら、主の僕として従順に歩み、罪人のために十字架の上で刺し貫かられることになるからです。それは、罪人である私たちに救いの恵みを得させるためです。
そして今や、私たちもまた、キリストに結ばれているゆえに同じ声を聞くことになります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。私たちも、心から罪を悔い改めてキリストの救いを信じて洗礼を受けた時、神様の喜びとされて、キリストのゆえに、愛する子として受け入れられるのです。そのように導いてくださるのもまた、聖霊なる神様の御業です。