2022年01月02日「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」
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主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 3章1節~12節
聖書の言葉
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8悔い改めにふさわしい実を結べ。
9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」マタイによる福音書 3章1節~12節
メッセージ
本日の御言葉は、洗礼者ヨハネについて語りますが、その使命は、自分の後に来られるイエス様を指し示すこと、まことの王であるイエス様のために道を備えることにありました。3節には、この洗礼者ヨハネこそ、イザヤが預言していた「荒れ野で叫ぶ者」だと記されています。
ヨハネは、イザヤが預言した通り、文字通りユダヤの荒れ野で叫ぶ声となって、主がやってくる道筋を整えるためにヨルダン川で洗礼を授けていました。
彼が荒れ野で呼ばわった言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。まるで荒れ野に、舗装された道をまっすぐに整えるように、荒んだ人の心に、神様がそこを通って行かれるような道筋が置かれること。神をなくして荒れ果ててしまったその心に、神様の道を整えると言うこと。つまり、人の心が真実に神様に向かうような悔い改めこそが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」するということなのです。
ヨハネのもとに多くの人がやってきて、罪を告白し、洗礼を受けていました。
その中に、ファリサイ派やサドカイ派の人たちが大勢いたようです。ファリサイ派もサドカイ派も、どちらも後にイエス様と対立するグループの人たちです。ただそれは、神様を信じていないためではなく、むしろ彼らはユダヤの人々の中でも信仰熱心な人たちでありました。熱心でありながら、彼らは最後にはイエス様を十字架の死へと追いやってしまうことになります。
ヨハネはファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、痛烈な非難の言葉を語ります。「あなたたちは悔い改めにふさわしい実を結んでいない」と言うのです。なぜなら、ファリサイ派やサドカイ派は自分たちのやり方で熱心に神の掟を守ろうとしましたが、結局のところ、その掟の本来の出どころである神を畏れ、律法の本質である神の憐れみに心を向けることがなかったからです。むしろ彼らは「我々の父はアブラハムだ」、つまり「我々ユダヤ人は、アブラハムの子孫だから、神に選ばれた民、神の救いにあずかる民なのだ」という自惚れをもっていました。このような自惚れた心で、真の悔い改めは成り立ちません。
真の悔い改めとは、自分たちのもつ一切の自惚れた心が打ち砕かれて、自分は神様の前に全くの無力で罪深い者であることを素直に告白することです。無力で罪深い者であると告白するとは、言い方を換えると、ただ神様の恵みによって生きるということです。神様が、イエス・キリストの十字架と復活を通して与えてくださった罪の赦しという恵みに依り頼んで生きるということです。
「悔い改め」とは「方向転換」だと、よく言われます。どこに方向を向けるのかと言うと、主なる神様です。神様が、御子イエス・キリストを通してお与えくださる恵みの中に、自らを置くということです。新しい年の歩みも、神様の恵みの中で、イエス・キリストを人生の土台として歩んでいきたいと願います。そのことを通して、この教会に注がれる恵みを確かに受け取りながら、喜びながら、共に歩んで参りたいと願います。