2021年12月26日「神の慰め」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」
19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、 20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」 21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。 22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、 23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

(参考:エレミヤ書31:31-34)
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
マタイによる福音書 2章13節~23節

原稿のアイコンメッセージ

本日の御言葉には16節にありますように、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子が、一人残らず殺された」という、痛ましい出来事が記されています。これを引き起こしたのは、ヘロデ王です。

ヘロデは、自分の他に「ユダヤ人の王」が生まれたと言うのであれば、その存在を消し去ってしまおうと考えました。自分の王としての地位を奪われることを恐れたからです。ヘロデは猜疑心が強く、一度「自分の地位を脅かそうとしている」と不安を抱くと、その不安に取り憑かれて、果てには自分の親族でさえも殺してしまう残虐さをもっていました。

私たちはヘロデのように、ひとつの地域を治める王ではありませんから、「私はここまで酷くはない」と思うかもしれません。けれども、私たちもまた「王のようになって、誰かを自分の支配下に治めよう」とする心とは無関係ではないのだと思います。端的に言ってしまえば、自分にとって気持ちの良い人間だけ自分の王国に受け入れて、邪魔になる人間は外に押し退けてしまおう、ということです。ヘロデは極端に見えるかもしれませんが、結局、心にあるのは「邪魔者は排除しよう」という論理です。

 私たちが忘れてはいけないことは、他人も、また自分も、神様の支配のもとにあるのだということです。この地上の一切の権限が神様のもとにあるということを私たちが忘れて、自分の造り上げる世界の中で、自分の思う通りの生活を楽しもうとするときに、ヘロデと同じ罪を突きつけられるわけです。自分の思う通りの支配を妨げる者は「排除してしまえ」「殺してしまえ」となるのです。その意味で、幼児虐殺という理不尽に思われる出来事の背後には、私たちの罪の現実が深く関わっています。

ところで、17節以下で実現したと言われているのはエレミヤ書31章15節です。預言者エレミヤは「ラケルが泣いている」と表現したわけですが、その背景にはイスラエルが経験したバビロン捕囚があります。バビロンに連れていかれる子たちの悲惨な状況を見て、その母たちが激しく嘆き悲しむ姿を「ラケルがその子らのために泣いている」と言ったわけです。

マタイは、バビロン捕囚時代の嘆きを、ベツレヘムの若い母親たちが自分の子を殺された悲しみと重ねて「預言者エレミヤを通して言われたことが実現した」と言っているわけですが、実のところ、本当に言いたいことは、引用したエレミヤ書の後のところにあります。すぐ後に「主はこう言われる。泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる」と慰めを語っています。捕囚となった人々が自分達の国に帰ってくると預言されているのです。ということは、ラマの悲しみは悲しみで終わるのではなく、希望に通じている、ということがわかります。

さらに、エレミヤ書を続けて読むと31節に「新しい契約」と出てきます。31節「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。これは、一言でいうならば、救いが起こる!ということです。かつてイスラエルの民は、エジプトから救い出してくださった神様との契約を破りました。神様に背き続け、その身に裁きを招きました。けれども、そのような人々に、神様はなお憐れみと慈しみを注いで、「新しい契約」を約束しておられたのです。

その、新しい契約の時代とはどのような時代か。それが33節「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」神様が人の心に律法を刻みつけ、神と民との関係を揺るぎないものにしてくださる。そして、34節の最後にあるように「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と、罪の赦しが与えられる。これが、新しい契約の時代です。

私たちのもつ罪は、この世の悲惨を招きます。「なぜ、このようなことが起こるのか」という災いと、嘆き、悲しみを招きます。けれども、それで終わりだとは、神様は仰らないのです。私たちは神様から罪を赦され、聖霊が与えられ、主を知ることができるようにされているのです。そのために主イエス・キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目によみがえられたのです。私たちが罪赦され、神様と共に生きるようになるためです。

本日の箇所では、幼子イエスは神様に導かれてヘロデの殺意からは逃れます。

幼子イエスがここで死を免れたのは、後の日の十字架の出来事のためでしかありません。ご自身のために生きのびたのではなく、私たちが生きるために、十字架上で死ぬために、ここで死を免れたのです。

本日の御言葉が語る出来事は、確かに悲惨な出来事です。目を覆いたくなるような出来事です。けれども神様は、神様ご自身があらかじめ決意して、計画しておられたことを、ただ成就へと導くのみなのです。

たとえ私たちの目に「なぜ、このようなことが起こるのか」「このような悲惨さの中で、神など本当にいるのか」と映っていたとしても、神様はこの世界の全てを支配しておられ、その統治をやめておられることはありません。ただ、ご自身の約束を、実現へと導いておられるのみです。

その先にあるのは神と共に、人が永遠の命を生きる希望です。ここに、私たちの慰めがあります。