2026年06月07日「主を頼みとして勇敢に」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

主を頼みとして勇敢に

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 14章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

1イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 2ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。 3それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 4町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。 5異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、 6二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。 7そして、そこでも福音を告げ知らせていた。使徒言行録 14章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロたちの福音宣教によって、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入りました。けれども、それと同時に、信じようとしないユダヤ人たちもいて、パウロたちの活動を邪魔する動きが起こったということも2節に描かれています。

 それに対して、パウロとバルナバは、すぐにその場を離れるということはしませんでした。むしろ、そこに長くとどまって、「主を頼みとして勇敢に語った」というのです。このことは注目に値することだと思います。つまり、反対があると言うことは、そこに福音が必要とされている、ということの裏返しでもあるわけです。もちろん、反対されること、悪意を向けられることは苦しいことだったはずです。パウロとバルナバにとっても、これは決して簡単な状況ではなかったでしょう。けれども、その反対の背後には、なお福音を知らず、神様の恵みを拒み、自分自身を傷つけている人々の姿があることもまた事実です。イエス様を受け入れずに拒むということ。そこには、福音の必要性があります。神様の目には、私たちはまことに弱い羊の群れです。福音の立場からすると救いを必要とする罪人です。そうであるならば、福音を語らずにはいられない。それが、ここでのパウロたちの思いだったのではないかと思います。

 ひとつ思い起こすのは、イエス様もまた、このような人々の様子をご覧になったということです。マタイによる福音書9章35節以下にこうあります。

 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35-36)

 これは、福音宣教のために弟子たちを派遣する直前に記された御言葉です。イエス様の周りにいた人々は、必ずしも皆がすぐに主を信じたわけではありません。やがてはイエス様を拒み、十字架へと追いやる。そのような人々の姿が露わになります。けれどもイエス様は、そのような人々をご覧になりながら、なお深い憐れみをお示しになりました。この「憐れみ」という言葉は、特別な表現で、文字通りには「はらわた」という言葉です。はらわたが突き動かされるような思い、すなわち「断腸の思い」をもってイエス様は福音宣教なさったということです。「このままでは彼らが飼い主のいない羊のようだ」。その憐れみに突き動かされて、イエス様は弟子たちを派遣なさったのです。つまり、福音宣教の出発点には、反対する者をも憐れむ主イエス・キリストの憐れみがあるのです。

 主イエス・キリストは、今も生きて、信じる者たちと一緒になってくださいます。パウロもバルナバも、主が生きておられ、共にいてくださるからこそ、反対の中でも勇敢に語ることができました。彼ら自身が勇敢だったのではありません。「主を頼みとして」とありますように、ここには主が共にいてくださるという励ましがあり、平安があります。それゆえに、反対の中でも長くとどまり、福音を語り続けることができたのです。