2026年05月24日「喜びと聖霊に満たされて」
問い合わせ
喜びと聖霊に満たされて
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 13章42節~52節
聖書の言葉
42パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。 43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。
44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 47主はわたしたちにこう命じておられるからです。
『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
あなたが、地の果てにまでも
救いをもたらすために。』」
48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。 49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。 51それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。 52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。使徒言行録 13章42節~52節
メッセージ
ピシディア州のアンティオキアという街で、パウロが説教を語った際に、二つの反応が現れました。そのうちの一つは、パウロの説教を聞いて深く心を動かされて、次の安息日にも同じことを話してくれるようにとしきりに願った、という人々です。「同じことを話してくれるように」とのことですが、これは全く同じ言葉を語ってくださいというよりは、同じ福音、つまり「イエス様の十字架と復活の話をしてください」ということでしょう。イエス・キリストの十字架と復活によって、私たち一人一人が罪赦され、その命が買い取られて、今、神様に招かれて共に生きる者とされていること。神様に愛されて、主イエス・キリストの命に生かされているのだということ。この、福音の中心が揺れ動いたり、変化したりすることはありません。このことを、聖書の御言葉によって神様が語ってくださっているので、それが説教者の口を通して皆様に告げられているわけです。
ここでパウロが語った福音は、前回までで読みましたように、イエス・キリストによって私たちに救いがもたらされた、ということです。イエス様は、私たちの罪のために、ご自分では何の罪もなかったにもかかわらず、私たちの罪を背負って十字架にかかられました。そして十字架の上で死なれ、私たちがもう一度、神様と共に生き生きと歩めるようにしてくださいました。パウロが語ったのは、このイエス・キリストの十字架と復活のことだったわけです。
これを聞いた人たちが「もっと聞きたい」と願ったように、この、イエス様の福音を聞いた時、私たちもそのように願うことができたならば、それはまことに幸いなことです。その心に、確かに聖霊が働いておられます。
パウロの説教を聞いて現れたもうひとつの反応は、ユダヤ人たちの反発でした。まず、次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の御言葉を聞こうとして集まってきたとあります。街の全体がどれほどの人数だったのかはわかりませんけれども、ピシディアのアンティオキアは決して小さな町ではなかったそうですから、本当に会堂に入りきらないほどの人が押しかけたのでしょう。それ自体は素晴らしいことですが、今度はそれを見たユダヤ人たちが、「ひどく妬みをもった」というのです。
これに対してパウロとバルナバは、勇敢に語りました。46節にある「勇敢に」というのは、かつて4章31節に「大胆に」と訳されていたのと同じ言葉です。そこでは、ペトロたちがユダヤ人の議会に迫害を受けて「もうイエスの名によって語るのをやめるように」と脅しを受けた時に、それでも聖霊に満たされて大胆に語ったのだという、そういう文脈で出てきた言葉です。聖霊を受けると、大胆に語る力をいただくのです(1:8参照)。
私たちは、パウロやバルナバ個々人の資質ということを超えて、聖霊なる神様がこのところで働いておられたこと。そして、今もなお、世の終わりに至るまで、聖霊の時代を私たちも生きていることを覚えたいと思います。