聖書の言葉 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(1:27)・・・神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(1:31)創世記 1章1節~31節 メッセージ *ウェストミンスター小教理問答に基づいた教理説教です。 <ウェストミンスター小教理問答> 問9 創造の御業とは何ですか。 答 創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、御自身の力ある言葉によって、六日間で、極めてよく造られたことです。 問10 神は人間をどのように創造されましたか。 答 神は人間を、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがい、被造物に対する支配権を有する者として、男性と女性に創造されました。 神様は私たち人間を、ご自身に似せて、ご自身にかたどって造ってくださいましたが、それは「知識と義と聖」とにおいてである、とあります。知識とは、神様の御心を正しく知る知識のことです。義とは、神様の御心に対して積極的に従うことです。さらに「聖」とは、道徳的に清潔であることです。つまり本来の人間は、神様を正しく知り、神様に聞き従い、神様を喜び、神様と共に生きる存在として、神様の栄光を表す歩みをしていたということです。 ところが、この素晴らしい神のかたちは、罪によって深く損なわれてしまいました。アダムとエバが神様の言葉に背いたとき、人は神様を正しく知る知識を曇らせ、神様に完全に従う義を失い、自らを汚してしまいました。その結果、私たちは神様の御心を十分に理解できず、自分中心に傾き、心のうちに罪の汚れを抱えて生きています。そういうことを思いますときに、今日の御言葉に描かれていた創世記1章の人間の姿と、今の私たちの姿との間には、大きな隔たりがある、ということを申し上げなければなりません。 けれども、神様はそのまま私たちをお見捨てにはなさいませんでした。神様は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架において私たちの罪を担ってくださいました。この、イエス様の十字架によって、失われた神のかたちが、もう一度私たちの内に回復されていく道が開かれたのです。エフェソの信徒への手紙に、次のような言葉があります。 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4章24節)。 この手紙でパウロが勧めていることは、情欲に惑わされた以前のような生き方を捨てて、イエス・キリストに結ばれて生きて行きなさい、ということです。そのことを指して「神にかたどって造られた新しい人を身につけ」と語っているわけです。つまり、イエス様によって罪贖われて、イエス様と共に生きるということは、罪の赦し以上の意味をもっているわけです。すなわち、ただ罪を赦されるだけでなく、本来の人間の姿へと立ち返っていく。そのような歩みへと招かれているということです。 罪によって神のかたちが損なわれ、神様から離れてしまった私たちを、神様はイエス・キリストによって再びご自身のもとへ呼び戻してくださるお方です。そして共に主を知り、主に従い、主を賛美する者として生きるように招いておられます。私たちは、神の民として、兄弟姉妹たちと共に、声を合わせて創造主なる神様をほめたたえる者とされています。ここに、今日の御言葉が私たちに語りかけている大きな恵みと招きがあるのです。 神様はこの世界とそこに生きる私たちを、極めて良いものとして創造なさいました。その、素晴らしい場所で、神様の本来の栄光が表わされることを祈り求めて、ご一緒に主をほめたたえていきましょう。
*ウェストミンスター小教理問答に基づいた教理説教です。
<ウェストミンスター小教理問答>
問9 創造の御業とは何ですか。
答 創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、御自身の力ある言葉によって、六日間で、極めてよく造られたことです。
問10 神は人間をどのように創造されましたか。
答 神は人間を、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがい、被造物に対する支配権を有する者として、男性と女性に創造されました。
神様は私たち人間を、ご自身に似せて、ご自身にかたどって造ってくださいましたが、それは「知識と義と聖」とにおいてである、とあります。知識とは、神様の御心を正しく知る知識のことです。義とは、神様の御心に対して積極的に従うことです。さらに「聖」とは、道徳的に清潔であることです。つまり本来の人間は、神様を正しく知り、神様に聞き従い、神様を喜び、神様と共に生きる存在として、神様の栄光を表す歩みをしていたということです。
ところが、この素晴らしい神のかたちは、罪によって深く損なわれてしまいました。アダムとエバが神様の言葉に背いたとき、人は神様を正しく知る知識を曇らせ、神様に完全に従う義を失い、自らを汚してしまいました。その結果、私たちは神様の御心を十分に理解できず、自分中心に傾き、心のうちに罪の汚れを抱えて生きています。そういうことを思いますときに、今日の御言葉に描かれていた創世記1章の人間の姿と、今の私たちの姿との間には、大きな隔たりがある、ということを申し上げなければなりません。
けれども、神様はそのまま私たちをお見捨てにはなさいませんでした。神様は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架において私たちの罪を担ってくださいました。この、イエス様の十字架によって、失われた神のかたちが、もう一度私たちの内に回復されていく道が開かれたのです。エフェソの信徒への手紙に、次のような言葉があります。
「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4章24節)。
この手紙でパウロが勧めていることは、情欲に惑わされた以前のような生き方を捨てて、イエス・キリストに結ばれて生きて行きなさい、ということです。そのことを指して「神にかたどって造られた新しい人を身につけ」と語っているわけです。つまり、イエス様によって罪贖われて、イエス様と共に生きるということは、罪の赦し以上の意味をもっているわけです。すなわち、ただ罪を赦されるだけでなく、本来の人間の姿へと立ち返っていく。そのような歩みへと招かれているということです。
罪によって神のかたちが損なわれ、神様から離れてしまった私たちを、神様はイエス・キリストによって再びご自身のもとへ呼び戻してくださるお方です。そして共に主を知り、主に従い、主を賛美する者として生きるように招いておられます。私たちは、神の民として、兄弟姉妹たちと共に、声を合わせて創造主なる神様をほめたたえる者とされています。ここに、今日の御言葉が私たちに語りかけている大きな恵みと招きがあるのです。
神様はこの世界とそこに生きる私たちを、極めて良いものとして創造なさいました。その、素晴らしい場所で、神様の本来の栄光が表わされることを祈り求めて、ご一緒に主をほめたたえていきましょう。