2026年02月08日「新たな教会の始まり」

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新たな教会の始まり

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
創世記 12章34節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

19ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。 20しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。 21主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。 22このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。 23バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。 24バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。 25それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、 26見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
27そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た。 28その中の一人のアガボという者が立って、大飢饉が世界中に起こると“霊”によって予告したが、果たしてそれはクラウディウス帝の時に起こった。 29そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。 30そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。創世記 12章34節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 これまでも迫害によって散らされた人々が、主イエス・キリストの福音を語り伝えたという話は語られてきました。例えば第8章でフィリポという人が、サマリア人や、エチオピアの宦官に伝道をしました。そのように、エルサレムから離れた場所で、信じて主に立ち返る人たちが起こされることは何度も描かれてきました。けれども、「信じて主に立ち返った者の数は多かった」と記されるのはここ(21節)なのです。個人的に信じたということではなくて、集団で、信じて受け入れるということが起きる。ここに、最初の異邦人教会、すなわちアンティオキア教会が誕生したわけです。

 この教会の歩みはさらに続きます。13章に進むと、アンティオキア教会は今度はバルナバとサウロを世界宣教へと送り出します。第一次宣教旅行と呼ばれるものです。その時に、このアンティオキア教会は、祈り、支え、送り出す主体となりました。また、本日の27節以下のところに、飢饉に苦しむエルサレム教会を援助する働きも記されています。生まれたばかりの教会が、エルサレム教会を助ける立場に立ったのです。このこともまた、特筆すべき点だと思います。

 教会を設立する段階では、アンティオキア教会は、多くのものを「受ける」立場にあったと思いますけれども、しかし彼らはその教会の成長と共に、「与える幸い」を味わい知ったということです。後にパウロと呼ばれることになるサウロが、「イエス様がこう仰った」ということで、イエス様の言葉を紹介してこう言っています。「受けるよりは与える方が幸いである」(20:35)。この、受けるよりは与える方が幸いであるという、主イエス・キリストの言葉が、すでに彼らの中に生きていたわけです。教会というのは、決して自分たちの内側だけを守ったり、整えたりすればそれでよい、というものではない。主にあって互いに支え合い、外へと開かれていく共同体なのだということです。そして、その中心にはいつもキリストがおられました。彼らの歩みの中にキリストがおられましたし、そこにいるキリスト者たちの姿には、いつもキリストが見出される、滲み出ている。こういうことだったのだと思います。だからこそ、人々は彼らのことを「キリスト者」と呼んだのです。

 「キリスト者」という呼び名は、彼らが自分たちで名乗ったものではありません。周りの人たちが、彼らの日常を見て自然に呼び始めた「あだ名」のようなものでした。それは、信仰を持った彼らがただひたすらキリストに従って生きていたということが、当時のローマ世界で一大都市であるアンティオキアで、一般的に認められたということでもあります。キリスト者たちの言葉、交わり、助け合いの中から、キリストの恵みが滲み出ていたということなのです。「あだ名」をつけられるのは、その人が周囲にとって気になる存在だからです。無視することのできない、そういう存在だからです。私たちも、キリストの恵みが滲み出るような歩みをすることができるなら、それはまことに幸いなことです。