2026年02月01日「神の救いは妨げられない」
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神の救いは妨げられない
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 11章1節~18節
聖書の言葉
1さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。 2ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、 3「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。 4そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 5「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 6その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 7そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 8わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 9すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 11そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 12すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 13彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 14あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 15わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 16そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 17こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。使徒言行録 11章1節~18節
メッセージ
このところは、使徒言行録を解説する注解書を読んでおりますと、よく「ペトロの弁明」というタイトルで解説されています。弁明とは、自分の言動を説明し、相手に理解してもらおうとすることです。それはある面ではその通りで、ペトロは「どうして自分が異邦人であるコルネリウスのところに出向いて、食事を共にし、洗礼を授けたのか」ということを丁寧に語り伝えています。ただ、これが、果たして自分の正当性を弁明するための言葉であったのかと考えました時に、それもまた違うのではないかと思うわけです。つまり、ここでペトロが語っていることは、自分の正しさを認めさせる言葉ではなくて、神様の御業を物語る言葉であるということです。その意味で、ここで語っているペトロの言葉は、「証し」であると言ってもよいと思います。自分自身を主張するのではなくて、神様の御業を物語るのです。神様が、どのような配慮をもってコルネリウスたち異邦人を救ってくださったのか。そこに自分がどのように用いられて、幻という不思議な現象も伴いながら、そこにどんな神様の導きがあったのか。そのような神様の御業を語っているのです。そこにはもちろん、それを語ることによって喜びが満たされていたでしょうし、感謝が満たされていたはずです。事柄を冷静に淡々と語っているのは事実ですが、そこで語っていることは神様の導きであり、御業であり、それを証しすることには喜びがあるのです。確かに、エルサレム教会の人たちと意見の食い違いがありますから、緊張感はあったかもしれません。でも、それだけではなくて、ここにあるのは神様への感謝であり賛美であり、その御業を証しする喜びであった、と思います。
これまで何度も引用しておりますが、使徒言行録1章8節を思い起こしたいものです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。復活のイエス様の約束です。この約束が、いよいよ大きな広がりをもって実現していこうとする。その、歴史の転換点に、ペトロたちは立っていました。事実、コルネリウス一家が救いに入れられた。そうして神様の御心が示されました。そうであるならば、人間に、神様の救いの御業を妨げることはできません。
ペトロの証を聞いたエルサレム教会の人々は静まりました。神様が働いておられることがわかったからです。このように、神様の御前では、人は沈黙するしかありません。自分の主義・主張で語るのではなく、神様に心を向けて、その御心に委ねることです。
そして彼らは、神様を賛美しました。私たちもまた、神様が生きて働いておられることを覚えて、心から神様をほめたたえ、賛美したいと願います。神様の御業を仰ぎ見て、そこに信頼して、心からの賛美に導かれたいと願います。主を賛美する。それこそ、新しい命に生かされている証しであります。