聖書の言葉 31だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(10:31)コリントの信徒への手紙一 10章31節~11章1節 メッセージ *ウェストミンスター小教理問答に基づく教理説教です。 <ウェストミンスター小教理問答> 問1 人間の主要な目的は何ですか。 答 人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。 ウェストミンスター小教理問答の第一問は、極めて単純でありながら、非常に重い問いかけを、私たちに投げかけています。それが、「人間の主要な目的は何ですか」ということです。何よりも興味深いことは「人間の」と問いかけていることです。「人生の」ではなく「人間の」です。ただ私たちの地上生涯がどうかという話で終わらない。人間そのものの究極目的を問うているのです。例えば学生は、学生である前に人間です。そのように、私たちは何者であるにせよ、まず人間であるのです。人間としての、根本的な存在の目的があるのです。 その、人間の主要な目的について、小教理は二つのことを語っています。一つは「神の栄光をたたえること」で、もうひとつは「永遠に神を喜ぶこと」です。「神の栄光をたたえること」とは、もっと単純な言い方をするならば「神様を礼拝する」ことです。それで、礼拝と言うと、私たちはすぐに日曜日のこの時間を思い浮かべると思います。実際に、神様の栄光をたたえる最も中心的な場は、この日曜日の礼拝の時です。けれども、私たちの礼拝とは、それだけを意味するのではありません。使徒パウロは言います。「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(一コリ10:31)。これは、神様の栄光を現すことについて、何か大それたことをしようというのではなく「食べる」とか「飲む」とかいう、極めて日常的なことで、それができるということです。「神の栄光を現す」などと言われると、何か大きな事業でも成し遂げないといけないのか、と思われるかもしれませんが、聖書が語ることは、そうではないのです。もっと単純な言い方をするならば、生活の全てを、神様の眼差しの中で生きるということなのです。 そして、小教理の答えのもうひとつは「永遠に神を喜ぶこと」です。ウェストミンスター信仰規準の原文は英語なのですが、「喜ぶ」はもともと「エンジョイ(enjoy)」という言葉で表現されています。ですから、私たちは神様をエンジョイするのだと言っているわけです。神様を愛し、神様を讃美するところで、その交わりを喜ぶ。それが、私たちの究極的な目的であるということです。これは、嫌々強いられて「喜べ」ということではありません。私たちが自ら神様を喜ぶ。いや、そうせずにはいられなくされるのです。それがどうしてなのかと言いますと、それは、私たちが神様を喜ぶよりも先に、神様が私たちを喜んでくださるからです。 「私の目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」。これが、神様の目から見た私たちという存在です。「人間である」とは、こういうことなのです。一人一人が、神様の目から見て、値高く尊いのです。神様は、私たちの存在を、喜んでくださる。誰よりも喜んでくださる。だからこそ、イエス・キリストが与えられたのです。そのように「私」の存在を喜んでくださる方を喜び、その栄光をほめたたえる。そこに私たちの究極の幸いがあります。
*ウェストミンスター小教理問答に基づく教理説教です。
<ウェストミンスター小教理問答>
問1 人間の主要な目的は何ですか。
答 人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです。
ウェストミンスター小教理問答の第一問は、極めて単純でありながら、非常に重い問いかけを、私たちに投げかけています。それが、「人間の主要な目的は何ですか」ということです。何よりも興味深いことは「人間の」と問いかけていることです。「人生の」ではなく「人間の」です。ただ私たちの地上生涯がどうかという話で終わらない。人間そのものの究極目的を問うているのです。例えば学生は、学生である前に人間です。そのように、私たちは何者であるにせよ、まず人間であるのです。人間としての、根本的な存在の目的があるのです。
その、人間の主要な目的について、小教理は二つのことを語っています。一つは「神の栄光をたたえること」で、もうひとつは「永遠に神を喜ぶこと」です。「神の栄光をたたえること」とは、もっと単純な言い方をするならば「神様を礼拝する」ことです。それで、礼拝と言うと、私たちはすぐに日曜日のこの時間を思い浮かべると思います。実際に、神様の栄光をたたえる最も中心的な場は、この日曜日の礼拝の時です。けれども、私たちの礼拝とは、それだけを意味するのではありません。使徒パウロは言います。「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(一コリ10:31)。これは、神様の栄光を現すことについて、何か大それたことをしようというのではなく「食べる」とか「飲む」とかいう、極めて日常的なことで、それができるということです。「神の栄光を現す」などと言われると、何か大きな事業でも成し遂げないといけないのか、と思われるかもしれませんが、聖書が語ることは、そうではないのです。もっと単純な言い方をするならば、生活の全てを、神様の眼差しの中で生きるということなのです。
そして、小教理の答えのもうひとつは「永遠に神を喜ぶこと」です。ウェストミンスター信仰規準の原文は英語なのですが、「喜ぶ」はもともと「エンジョイ(enjoy)」という言葉で表現されています。ですから、私たちは神様をエンジョイするのだと言っているわけです。神様を愛し、神様を讃美するところで、その交わりを喜ぶ。それが、私たちの究極的な目的であるということです。これは、嫌々強いられて「喜べ」ということではありません。私たちが自ら神様を喜ぶ。いや、そうせずにはいられなくされるのです。それがどうしてなのかと言いますと、それは、私たちが神様を喜ぶよりも先に、神様が私たちを喜んでくださるからです。
「私の目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」。これが、神様の目から見た私たちという存在です。「人間である」とは、こういうことなのです。一人一人が、神様の目から見て、値高く尊いのです。神様は、私たちの存在を、喜んでくださる。誰よりも喜んでくださる。だからこそ、イエス・キリストが与えられたのです。そのように「私」の存在を喜んでくださる方を喜び、その栄光をほめたたえる。そこに私たちの究極の幸いがあります。