2026年01月18日「異邦人にも神の救いが」
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異邦人にも神の救いが
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 10章34節~48節
聖書の言葉
34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 48そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。使徒言行録 10章34節~48節
メッセージ
ペトロはイエス・キリストを語り始めるのですが、まず印象に残るのは「イエス・キリストこそ、すべての人の主である」という宣言です(36節)。ユダヤ人と異邦人の区別は、「すべての人の主」であるイエス様のゆえに、もはや存在しないのです。イエス様こそは、人間を偏り見られないお方です。どのような人に対しても愛を注いでくださる、神様の御心を体現するお方です。
また36節から37節にかけて、ペトロは、神様の御言葉が出来事を起こした、と言います。神様が御言葉を送ってくださった。そうして語られた御言葉が、後に「出来事」としてつながっていくということ。すなわち、御言葉がイエス・キリストによって、救いがもたらされるという出来事になった、ということです。ただ語られて消えてなくなるとか、聞いて終わり、ではありません。神様の言葉は、イエス様による救いの出来事となるのです。
さらにペトロは43節で、預言者の言葉として「罪の赦し」について触れています。この、罪の赦しという問題が決定的に重要です。イエス・キリストの出来事とは何か。それは結局のところ、ご自分の十字架によって罪の赦しを得させることにありました。さらにはご自分の復活によって、私たちに永遠の命を得させることでもあります。ペトロは、その「罪の赦し」が信仰を通して与えられる、と教えているのです。コルネリウスは確かに信仰心あつく、神を畏れ、多くの施しと祈りを行なって、神様の前に正しく生きる人でした。しかし、そのようなコルネリウスであっても、イエス・キリストによる「罪の赦し」が必要です。人がどれだけ良い生活を心がけ、善良に生きているつもりでも、神様の前には罪があり、欠けているところがあります。人の善良さは神様の前には通用しません。イエス様を信じる信仰がどうしても必要なのです。そしてその「イエス・キリストへの信仰」は、「御言葉を聞く」そのことにおいて起こる出来事なのです。御言葉を聞く。そのことにおいて、私たちは、そこで神様の出来事が起こる、ということをまた知るのです。
ペトロの説教がまだ終わらないうちに、コルネリウスとその仲間たち、つまり御言葉に耳を傾けていたすべての人々に、聖霊が降りました(44節)。このことは、私たちがイエス・キリストを宣べ伝える御言葉の説教を聞くときに、信仰が生じる、ということを示しています。聖霊が、説教を聞く一人一人の心に触れてくださる。そのときに、私たちは信仰を与えられるのだということです。
ペトロは最後に「いったいだれが、洗礼を妨げることができるだろうか」と言いました。これは、異邦人に対する問いであると同時に、私たち自身への問いでもあると思います。神様は、御言葉を聞くところに聖霊を注ぎ、罪の赦しを与えてくださるお方です。ですから私たちは、自分の先入観や自分が作ってしまった壁・枠組みを、神様の前に置かないようにしたいのです。ただ神様の前に立ち、その御言葉が起こす「出来事」に、身を委ねたいのです。