2025年12月21日「飼い葉桶のイエス」
問い合わせ
飼い葉桶のイエス
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 2章1節~7節
聖書の言葉
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。ルカによる福音書 2章1節~7節
メッセージ
(これは、夕方16時半〜執り行われたキャンドル礼拝の説教要約です)
母マリアは、生まれたばかりのイエス様を布に包んで、飼い葉桶に寝かせました。その場所が、飼い葉桶だったことには大きな意味があります。
飼い葉桶。ここは本来、家畜の餌を入れる場所です。清潔とは言えない。むしろ汚くて貧しい。救い主の誕生に決してふさわしいと言えない。けれども、そこに救い主はお生まれになりました。そしてここに神様の救いのあり方が示されているのです。
なぜ、それほどまでに低いところに来られなければならなかったのでしょうか。それは、私たち人間の現実が、決して清く、整った場所ではないからです。私たちは、自分では「正しく生きたい」とか、誰かを「愛したい」と願っています。けれども実際には、愛したいと思う相手を傷つけてしまったり、分かり合いたいと願う人と、すれ違ってしまいます。傷つけたくないと思いながら、言葉で人を傷つけてしまう。大切にしたいと思いながら、自分を守るために相手を遠ざけてしまう。そのような経験を、誰しもがもっているのではないでしょうか。
聖書が「罪」と呼んでいるのは、単に「悪いことをしてしまった」という行為だけのことを言っているのではありません。本当は愛するために造られたのに、愛することのできない私たちのあり方。そこにこそ、罪の現実があります。
神様は、わたしたちを、互いに愛し、神様と共に喜んで生きる存在として造られました。けれども私たちは、その愛をうまく受け取ることも、その愛を誰かに渡すこともできなくなっています。その結果、神様の思いがわからなくなり、人と人との関係も、どこか歪んでしまう。それが、聖書の語る「罪」の現実です。
ですから私たちは、神様の前に決して「綺麗な存在」として立っているわけではありません。むしろ、自分でもどうしようもない思いを抱え、整えきれない心を抱いたまま、生きているのです。イエス様が飼い葉桶にお生まれになったのは、そんな罪ある私たちの真っ只中にお生まれになったということです。救い主は、私たちの真ん中に、私たちの現実の中に来て、私たちの傍らに立ってくださったということなのです。これが、私たちにとっての福音です。良い知らせです。これがクリスマスの出来事なのです。
神様は、罪と弱さを抱えた私たちの現実から目を背けることなく、その只中に来てくださいました。それは、私たちの痛みを知らない救い主ではなく、知っておられる救い主として来られた、ということです。
やがてイエス・キリストは、私たち人間の苦しみを憐れみ、その罪を背負って、最後には十字架の上で死なれました。その生涯は、最初から最後まで、私たちの傍らに立つ歩みでした。飼い葉桶に眠っている救い主イエスは、私たちにとっての福音、良い知らせそのものであるのです。
神の御子イエス・キリストが私たちのもとに来てくださった。貧しい姿で、私たちの傍らに来てくださった。このイエス・キリストを見つめて、受け入れるところに、私たちのまことの幸いがあります。