2025年12月28日「礼拝的人生を生きる」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。ローマの信徒への手紙 12章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

 自分自身を神様の働きのためにささげる。それを感謝のうちに行うことが、パウロの勧める礼拝です。しかもそれは死んだ動物をささげる礼拝ではなく、新しい命に生きている私たち自身を神様のために差し出す、文字通りの「生きた」ささげものである、ということです。

 神様は、イエス・キリストをこの地上に送ってくださって、私たちの罪を取り除いてくださいました。今、私たちは、イエス様を信じる信仰によって、神様の子どもとして温かく迎え入れられています。ただそれは、「今までの罪が赦されて、後はどうなってもよい」ということでは決してないわけです。神様は、罪赦された後も、私たちが神様と一緒に健やかに生きるようにと願っておられます。神様に喜ばれるような生活を送り、私たちもまた神様が与えてくださる恵みを喜んで生きることができるように、と願っておられるのです。

 ですから、私たちが今なすべきことは、自分自身を感謝のささげものとして、神様のみもとに置くことです。そもそも「ささげもの」というのは、何かささげるものを、ささげたい対象の前に置くことですね。その際に、キリスト教会では、いわゆる仏壇への「供え物」のように、食べ物などを講壇に置いたりしないわけですけれども、しかし私たちは、実は自分自身を文字通りささげているのです。自分自身を神様の前に、文字通り差し出す。そして「これが、あなたがたの礼拝だ」とパウロは言うのです。

 さらにもうひとつ大切なことがあります。その、私たちが神様の前にささげる礼拝とは、日曜日の公的な礼拝の場だけではありません。私たちが生活するすべての場、すべての領域において神様は生きて働いておられます。ですから、私たちの人生のどんな場所、どんな一瞬でも、神様の支配が及ばないような、神様と無関係でいられるような場所はどこにもないのです。ということは、私たちの生活のどんな場所、どんな一瞬においても礼拝は成り立つわけで、生活のすべてにおいて、文字通り私たちはこの人生を、神様にささげられた人生として生きるということです。私たちは、日々、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげることができるのです。それをひとことで言って、「礼拝的人生」と言ってよいと思います。

 礼拝的人生を生きる。家庭で、職場で、学校で、あるいは日常の小さな出来事の中で。どんな場所でも、どんな時でも、神様の支配が及ばないところはありません。だからこそ、私たちはこの人生そのものを礼拝として生きることができます。本来救われるはずのなかった罪人の私たちが、ただ神様の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたのです。キリスト者の生活とは、そのような大いなる神様の憐れみに対する感謝の応答です。そこには驚きがあり、神様に対する賛美があります。感謝と喜びがあります。そこにこそ、私たちの幸いがあるのです。