2025年12月07日「アドベント(2)〜イエスの再臨を待ち望む〜」
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アドベント(2)〜イエスの再臨を待ち望む〜
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 24章32節~44節
聖書の言葉
32「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 33それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 34はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイによる福音書 24章32節~44節
メッセージ
アドベントとは「到来」を意味する言葉であり、そこにはもちろんクリスマスを待ち望むという意味が込められています。クリスマスとは、イエス様がこの地上にお生まれになった、その第一の到来を喜び祝う日であるわけです。ただし、アドベントの意味はそれだけではありません。このアドベントには、イエス・キリストの第二の到来、すなわち世の終わりの時にもういちど来てくださるという「再臨」を待ち望む、という意味も込められているのです。その再臨を待ち望む姿勢とはどのようなものでしょうか。
37節から、イエス様はノアの洪水の出来事を例に挙げておられます。ここで言われているノアの洪水の出来事については、旧約聖書の初めの書物である「創世記」の6章から9章にかけて描かれています。神様は、地上に生きる人間たちが堕落して、罪と悪に満たされているのをご覧になって心を痛められました。そのために、地上に洪水を起こして全ての人を滅ぼすことを決意されたのです。しかし、同じ時代に生きていた「ノア」という人物に関しては、神様に従う無垢な人でした。そのため、神様はノアとその家族、そして動物たちを生かすために「洪水が来る」ことを予告し、方舟を作らせたわけです。
ところが、ノアとその家族を除いた、当時のほとんど全ての人々は、その神様の御言葉に関心を向けません。「洪水なんて来るはずがない」「こんなところに巨大な方舟を造るなんて馬鹿げている」。そう言って嘲笑い、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしたのです。ここで言う「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」(38節)というのは、ひたすら日常生活に心奪われていた、という意味です。ノアを通して語られる神様の御言葉に目を向けることなく、毎日の生活に気をとられていた、ということです。神様の裁きなど考えることもなく、日常生活に明け暮れていたのです。
食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだり。こういう日常生活そのものは、悪いことではありません。むしろ私たちにとって重要なことです。問題はそれにのめり込むことによって、神様を見失うことです。使徒パウロは次のように言いました。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(一コリント10:31)。私たちの日常は、いつも神様の前にあるのだということです。日常生活と、神礼拝は対立するものではなく、一体的なことなのです。私たちにとって大切なことは、日常生活そのものを、神様と共にあるものとすることです。神様を意識せずに生きるのではなくて、どんなときも神様と共に生きるものとするのです。
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(35節)。イエス様はそのように仰いました。この世界はやがて崩れ去る日が来ます。けれども、私たちには天地が滅びても失われない希望があるのです。その希望に向かって、私たちはいつも神様と共に、神様の愛の眼差しの中で歩みたいと願っています。