2025年11月16日「主の器として立つ」

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主の器として立つ

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 9章19節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、 20すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。 21これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」 22しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
23かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、 24この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。 25そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。
26サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 27しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。 28それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。 29また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。 30それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
31こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。使徒言行録 9章19節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、サウロのことを「わたしが選んだ器」(15節)だと仰いました。器は、持ち主がそこに何を注ぐかによって、本当の価値が決まります。もちろん器それ自体が高価である場合もあるかもしれませんが、そこに何も注がれなければ、器としては意味がありません。反対に言えば、私たち自身がどんなに欠けが多く、ひびが入っているような土の器だったとしても、イエス様がそこに救いの恵みという高価な宝を注いでくださいます。そうしてイエス様に恵みを注がれ、イエス様に用いられる器となるところに、私たちの幸いがあるのです。その意味で、サウロの身に起こったことは、主の器として立つ、ということです。それが、今までの熱心さとは、本質的に違うところです。

 しかしながら、主の器として立つところには、喜びだけではなく、苦難もまた避けることができません。サウロがキリストの福音を語ったことで、ユダヤ教徒からの反発を受け、命を狙われることになりました(23〜25節)。イエス様の名のために苦しむ。それもまた、サウロに与えられた使命でした(16節参照)。サウロは、その労苦もまた自分のものとして受け止めています。それが、主に従って歩む者の生き方であるのです。その歩みは命懸けでありますが、しかしキリストの福音には、命をかけるほどの価値があるのです。

 また、主に選ばれた器として、主に従って歩んでいたのは、サウロだけではありません。ここには、サウロを手助けすることで、主のご計画に加わっていく人々の姿も記されています。サウロはエルサレムの弟子たちのもとを訪ねたわけですが、この時にサウロを使徒たちに紹介し、間を取り持ってくれた一人の人物がいました。それが、バルナバという人物です。「バルナバ」という呼び名は、「慰めの子」という意味です。彼が「慰めの子」と呼ばれていますのは、彼がこのように和解と慰めをもたらす人だったからなのだと思いますが、その慰めの源は、言うまでもなく主である神様です。

 人間の感情からすれば、サウロが仲間に加わろうとするのを警戒し、「どうしてあんなやつが仲間に入るのか」と思う人がいて当然のことです。自分を捕まえて殺そうとしていた人を仲間として迎え入れる。それがどんなに難しいことであるかと思わされます。私たちはともすれば、自分の周りに争いや対立ばかりを引き起こしてしまうものです。しかし、私たち信仰者は皆、主イエス・キリストによる神様の慰めを受けている者です。そのような主の慰めを受けた者として、このバルナバのように、キリスト者同士が互いに一致して仲間になることを助ける奉仕ができたなら、それはまことに幸いな、大きな奉仕です。

 ここで決定的なことは、いつも主の御心と主の御業であって、私たちの感情や好みではありません。自分の思いを超えて「主がそう命じておられるから」キリストを証しし、「主がそう命じておられるから」相手を兄弟として受け入れる。そのようにして「主の器」として立つところで、教会は実りを生み出すのです。