2025年11月09日「サウロの回心」
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サウロの回心
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 9章1節~19節
聖書の言葉
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 2ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 3ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 4サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。 5「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 6起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 7同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 8サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。 9サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
10ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 11すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。 12アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」 13しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。 14ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」 15すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 16わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」 17そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」 18すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、 19食事をして元気を取り戻した。使徒言行録 9章1節~19節
メッセージ
サウロはこれまで、教会を荒らし回り、キリスト者を迫害してきました。しかしそれは、教会やキリスト者に対する迫害というよりも、神様が遣わされた救い主であるイエス様に対する迫害でありました。イエス様は、光の中で「サウル、サウル、なぜ『わたしを』迫害するのか」と仰せになります(4節)。イエス様は、教会や信徒たちの痛みを、ご自分の痛みとして受けてこられたのです。ですからサウロが今まで行なってきたことは、教会にというよりも、イエス様ご自身を痛めつけ、悲しませる行為であったのです。その意味で、「かつてイエス様を十字架につけた人々と同じように、自分もまた神の子であるイエス様を十字架につける過ちを犯したのだ」。サウロはそんなふうに、自分が神様に対して罪を犯したのだという事実に打ちのめされたのです。神様に敵対していたのです。サウロはショックだったでしょう。
これらのことは、要するに今までサウロが確信していた、彼を支えていたものが崩壊した、ということを意味します。私たちも、真実にイエス・キリストに出会うところでは、自分自身の罪の問題を、避けて通ることができません。イエス様に出会うまでは、私たちも自分の確信する道を歩んでいたのです。自分の中にある何者かを頼りにして歩んでいたのです。けれども、そこには深く罪の問題が横たわっています。「罪とは何か」については、色々な説明の仕方がありますが、ひとことで表現するなら、罪とは「愛せない」ことです。神様を愛することができない。また隣人を愛することができない。その「愛せない」ところで、神様への敵対が生まれ、また隣人と互いに傷つけ合うことが起こります。そのような、自分の中にある罪の問題を認めて、それが自分の力では解決できないほどに深刻であることを認めることが、私たちには必要です。罪の問題がそれほどに深刻であり、自分で解決できないと認めるところで、その問題を唯一解決できるお方である、イエス・キリストに立ち返る。すなわち、「回心」が生じるのです。
「わたしは、あなたが、迫害しているイエスである」。この語りかけが意味する重要なことは、神様の側からの語りかけによって、私たちはイエス様との関係に入る、ということです。ここは「わたしは」と「あなたが」という部分が特に強調されています(*ギリシャ語による)。サウロが熱心に追い求めたから、ではなくて、神様の側からサウロを捕らえてくださるのです。私たちもそうです。礼拝の中で語りかけられる説教の御言葉によって、私たちはイエス様との「わたしとあなた」という関係に入ります。説教は、牧師という説教者の口を通して語られますが、「牧師」と皆さんが出会うために語っているわけではないのです。そうじゃなくて、この御言葉を通して語られる「イエス・キリスト」と皆さんが出会うために、語っているのです。このことはとっても重要です。そこで皆さんがイエス・キリストと出会うならば、打ち砕かれたその心は、再生されて立ち上がることができるのです。