2025年10月19日「お金で買えないものがここにある」
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お金で買えないものがここにある
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 8章1節~25節
聖書の言葉
1サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。
その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。 2しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。 3一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。
4さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。 5フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。 6群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。 7実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。 8町の人々は大変喜んだ。
9ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。 10それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。 11人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。 12しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。 13シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
14エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。 15二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。 16人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。 17ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。 18シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、 19言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」 20すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。 21お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。 22この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。 23お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」 24シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
25このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。使徒言行録 8章1節~25節
メッセージ
ステファノの殉教をきっかけにして、教会に対する迫害が強まり、信徒たちが各地に散らされていきました(1~3節)。このこと自体は教会にとって大きな試練であったと思います。けれども、そのことによって、実はここからイエス・キリストの福音はますます拡大し、広がっていきます(4節)。イエス様の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)との御言葉が文字通り実現していきます。
サマリアの町に、シモンという魔術師がいました。彼はフィリポの伝道によって、イエス・キリストを受け入れ、洗礼を受けました。けれども信じて洗礼を受けたと言っても、魔術師であるシモンは、自分よりも目覚ましい奇跡を行なっているフィリポを見て、自分もこれに弟子入りしたらもっと人々を驚かせることができるかもしれない、といった動機がその根底にあったものと思われます。そこで彼は、聖霊をお金で買おうとする、という間違いを犯してしまったのです。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください」(19節)。お金を持ってきて、そのように頼んだのです。
ペトロは、シモンに対して「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」と言って厳しく叱責しました。「滅びてしまうがよい」というのは、かなり厳しい言葉です。ここには、神の賜物をお金で手に入れようとすることが、それほどまでに重大な過ちであることが示されています。
神の賜物とは、本来、神様から一方的に無償で与えられる恵みのことです。私たちは、この賜物を与えるために、神様がどれほどの犠牲を払ってくださったのかを考えなければなりません。神様は、私たちに聖霊という賜物を与えてくださるために、独り子であるイエス・キリストを十字架の上で犠牲にしてくださいました。私たちは、そのイエス・キリストの十字架の血潮によって、この命を買い取っていただいたのです。そのイエス様の支払ってくださった尊い血潮という代価に勝るものは、この世のどこにも存在しないのです。
言い方を換えれば、神様が私たちに与えてくださるものは、とうていお金で買うことのできない絶大な価値のあるものだということです。神様は、私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。そこには、「あなたを愛するゆえに、何が何でもあなたの命を買い取る」(ヨハネ3:16/イザヤ43:4など)という、神様の御心があります。そして、そのイエス・キリストが十字架の上で獲得してくださった救いの恵みを、私たちの内側に実現するために、聖霊が注がれるのです。この、神様の賜物を、賜物としていただくことに、心を向けたいと思うのです。