2025年10月12日「愛への帰郷〜『アルプスの少女ハイジ』と聖書〜」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

愛への帰郷〜『アルプスの少女ハイジ』と聖書〜

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章11節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ルカによる福音書 15章11節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今日の説教の題(タイトル)を「愛への帰郷〜『アルプスの少女ハイジ』と聖書〜」と、このように付けました。「アルプスの少女ハイジ」という作品そのものについては、1974年に始まったアニメの影響もあって、本国のスイスに引けを取らないくらい、日本でもよく知られているのではないかと思います。ところが、アニメでは残念ながら、原作にある聖書の言葉、聖書の物語、祈りの言葉、讃美歌の引用、そういったものは取り除かれているのです。もし読まれたことのある方はわかると思いますが、この作品には本来、神様の愛に包まれた人の、たとえようもなく温かな感謝と賛美が溢れているのです。

 実はハイジのおじいさんの姿は、聖書の「放蕩息子のたとえ」に出てくる弟息子の姿と重なっています(ルカ15章)。放蕩息子とは、父親から財産をもらって家を飛び出し、好き放題に生活したのだけれども、挫折して、悔い改めて帰ってきた。そのような息子のお話しです。ハイジはこのお話しを、絵本を指さしながらおじいさんに語りました。おじいさんは、その物語が聖書の「放蕩息子の物語」だとわかると、すっかり黙ってしまいます。ハイジの読み聞かせてくれた放蕩息子の姿が、自分の姿と重なっていたからです。

 ハイジのおじいさんも若い時は、裕福な農家の息子でした。しかし、たびたび家のお金を無断で持ち出してお酒や賭け事に使い、その結果、家を破産させてしまい、両親はそれを悲しんで次々に病気になって死んでしまったのでした。そしておじいさんは、親戚からも村の人からも冷たい視線を向けられるようになり、とうとう家にいられなくなって、遠いイタリアへ出稼ぎに行って、長い間村には戻ってきていなかったのでした。

 そういう暗い過去があるので、おじいさんは村の中に住まずに、高い山の上の小屋に、ひっそりと一人で住んでいたのでした。ハイジが帰ってきたことを素直に喜んでいたおじいさんでしたが、このおじいさんの心には、なお一つの深い傷が癒えぬままに残されていたのです。このようにして、ハイジのおじいさんは、村の人たちに背を向けて暮らしていました。でもそれだけではなくて、何よりも神様に背を向けて孤独に暮らしていたのです。それで「神様から逃げ出し、遠く離れたわたしはもう見放されている。神様はわたしを受け入れてなどくれない」という思いをもっていました。

 このようなおじいさんの心に、聖書の御言葉が鋭く突き刺さっていきます。『おとうさん、ぼくはわるいことをしました。天の神さまにも、おとうさんにも。ぼくはもうあなたの息子とはいえません!』おじいさんはこのように大粒の涙を流しながら悔い改めて、翌日、村の教会へ礼拝へ出かけるのです。 

 この「ハイジ」という物語そのものは、ひとつの創作でありますが、ここには現実の私たちの教会で起こる神様の愛が豊かに表現されています。神様の愛は現実のものです。神様に背を向けて歩んでいた私たちが、ただ「神様のもとに帰ろう」と決心するだけで、神様は大喜びで駆け寄り、抱き寄せてくださる。その、神様の愛は、本物なのです。

 聖書が語っている放蕩息子とは、ハイジに出てくるおじいさんだけのことを言っているのではありません。これは、私たち人間のことを言っているのです。現実に生きてこの場所にいる、私たち一人一人のことを言っているのです。私たちもまた、物語の放蕩息子が父親から愛されていたように、現実に生きて働く神様に愛されています。

 神様は「あなたを愛する」と言ってくださるお方です。この、神様の眼差しを、真正面から受け止めたいと思います。みなさんが神様の愛の中で、生きる喜びを豊かに見出しますように、神様のもとへ、イエス・キリストのもとへ、心から皆様をお招きいたします。