2025年10月05日「ステファノの説教(3)〜神殿とキリスト〜」

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ステファノの説教(3)〜神殿とキリスト〜

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 7章44節~60節

聖句のアイコン聖書の言葉

44わたしたちの先祖には、荒れ野に証しの幕屋がありました。これは、見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした。 45この幕屋は、それを受け継いだ先祖たちが、ヨシュアに導かれ、目の前から神が追い払ってくださった異邦人の土地を占領するとき、運び込んだもので、ダビデの時代までそこにありました。 46ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、 47神のために家を建てたのはソロモンでした。 48けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。 49『主は言われる。
「天はわたしの王座、
地はわたしの足台。
お前たちは、わたしに
どんな家を建ててくれると言うのか。
わたしの憩う場所はどこにあるのか。
50これらはすべて、
わたしの手が造ったものではないか。」』
(44〜50節)使徒言行録 7章44節~60節

原稿のアイコンメッセージ

 今、ステファノを訴える人たちは「ステファノがエルサレム神殿を冒涜している」と主張しています。それは言い方を換えるならば、彼らがエルサレム神殿に固執し、絶対視しているということです。確かに、神殿は当時のユダヤ人たちにとって、神様を礼拝する大切な場所でありました。けれども、神様というお方は本来、その神殿の中だけに留まるお方ではありません。もっと広く、いつでもどこでも豊かに共にいてくださるお方です。ですから、神殿という建物に固執することは、神様の臨在を矮小化してしまうことになりますし、人間がその手で作ったものを絶対視することは、偶像礼拝と変わりありません。

 そもそも神殿を建てることを願ったのはダビデでありますが、それを実際に建てたのは息子であるソロモンでした。これは、民が一つの土地に定住したことに伴って起きる、歴史の進展です。ですから神殿を建てたことそれ自体が間違っているわけではありません。けれども、その神殿に固執して絶対的なもののように考えるのは誤りなのです。48節でステファノが「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」と言っている通りです。実は、エルサレム神殿を建てたソロモン自身も、決して神殿に神様を納めることができるなどとは考えていませんでした。ソロモンは、「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」と祈りました(列王上8:27)。いかに立派な神殿であったとしても、主である神様を納めることのできるものではない。そのことは、ソロモンもよくわかっていました。そのように、神様の偉大さを告白した上で、この神殿で僕(しもべ)がささげる祈りを聞き届けてくださるようにと、そう謙虚に祈ったのです。

 ここには、神様の臨在について、大切なことが教えられていると思います。私たちは今、教会に来て、この滋賀摂理教会の礼拝堂で神様を礼拝しています。神様は確かに、ここに豊かに臨在して、共にいてくださいます。けれども、ここに来なければ、神様は私たちと共におられないのかと言えば、そうではありません。神様はいつでもどこでも私たちと共にいてくださいます。私たちがそれぞれの家庭にいるときも、職場にいるときも、神様は共にいてくださるのです。

 同時に、神様がいつでもどこでもおられるということは、教会がなくてもよい、という意味ではありません。むしろ教会生活は私たちにとってなくてはならないものです。キリスト教信仰は、「神様と私」という個人的な事柄であるのと同時に、「神様とその民」という共同体の事柄でもあります。この両方を受け止めることが大切です。

 神様は今、聖霊によって私たちの内側に住み込んでくださり、私たちをイエス・キリストと結び合わせ、私たちと共にいてくださいます。そのキリストの体である私たちの共同体=教会こそ、今、神の臨在が鮮やかに現れる神殿なのです。イエス・キリストを通して神様が共におられる。ここに、誰にも奪い去ることのできない私たちの平安があります。