2021年11月21日「神の働きを、共に担う」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5. アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6. わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7. ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
8. 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
9. わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。コリントの信徒への手紙一 3章5節~9節

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本日11月21日は、当教会の牧師就職式が執り行われる主日です。これを掲載する頃には既に就職式を終えているわけですが、これをもって金原堅二定住伝道者は滋賀摂理教会「牧師」として就職します。この朝に聞く御言葉として、教会の働き人について教えているコリントの信徒への手紙から聴き取っていきたいと思いました。

ここには、当時のコリント教会が抱えていた問題のうち、特に福音宣教者、伝道者についてコリント教会の人々がどのように捉えていたのか、という問題について書かれています。具体的には直前の4節に記されてあるように、「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、また別のある人は『わたしはアポロに』などと言っている」という、ある特定の伝道者に対して、行き過ぎた帰属意識をもつことによって分派争いをしていたわけです。この手紙を書いているのはパウロですが、パウロも、アポロも、時期は違いますがコリントの町で福音宣教をし、教会を指導した人物でした。コリントの町で最初に福音を伝えて、教会の基礎を敷いたのはパウロです。それから後、パウロがコリントを去った後に来て教会を指導したのがアポロです。この、パウロないしアポロ個人に対して、過度に傾倒して、夢中になって「わたしはパウロ先生が良い」「わたしはアポロ先生につく」と言って、グループ争いをしてしまっていた。これが、コリント教会の大きな問題の一つでありました。

パウロは5節で「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」と問います。「何者か」という日本語では判然とわかりませんが、これは「何か(what)」という疑問詞です。つまり問いかけたいことは、アポロやパウロの生い立ちや性格といった人物像(who)ではなく、彼らの働き、その役割が何か、ということです。そして彼らの役割が何かと言いますと「あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」なのです。「仕えた者」とは「奉仕者」という言葉であり、「召使い、しもべ、仕える者」という意味です。つまりパウロやアポロといった福音宣教者は「しもべ」なのであって、彼ら自身が主人なのではない、と言っているのです。

福音宣教者が「しもべ」であるということは、彼らが仕える主人がいるということです。その主人とは、言うまでもなく主なる神様です。福音宣教者たちは、神様に仕える者であり、「主が、お与えになった分に応じて」割り当てられた奉仕をするのです。

では、その割り当てられた働きは何かというと、続く6節「わたしは植え、アポロは水を注いだ」なのです。この、「植える」「水を注ぐ」という比喩表現は、9節の最後にあります「神の畑」、つまりコリント教会を「神の畑である」と見立てた喩えに対応しています。パウロの働きは「植える」という働きであり、つまりコリント教会を開拓伝道したということでしょう。それに対してアポロの働きは「水を注ぐ」つまり2代目の伝道者としてパウロの働きを引き継いだということです。

 このような働きの違いはありますが、6節には続けて「しかし、成長させてくださったのは神です」とあります。彼らに必要な賜物を与えて、教会を成長させてくださるのは、ただ神様だけなのです。

パウロとアポロはそれぞれ教養も違えば、性格や得意分野も違ったでしょう。パウロという人は、他の手紙を読んでいてもわかりますように、キリストの福音とは何か、キリスト教信仰とは何かという、どちらかと言うと信仰の基本的なことを語る人であったと言うことができます。それに対してアポロという人は、もちろんキリスト教信仰の基本も教えたでしょうが、その信仰生活をさらに肉付けし、より信仰を豊かにすることが得意であったのかもしれません。少なくとも既に信じていた人たちの信仰を助けたのがアポロでした。ですから、パウロは、「自分は植える役割をしたのだけれど、アポロは水を注いだ」と、こう表現したのでしょう。

 けれどもこのパウロとアポロの役割とは、区別されたとしても対立するものでは決してないのです。パウロはここで彼らの役割が対立して考えられることを明確に否定しています。それぞれの賜物は違うけれども、彼らの働きは本質においては一つだからです。

コリントの人々は「私はアポロに」「私はパウロにつく」などと言っていましたが、福音宣教者個人が崇められることがあってはなりません。彼らの働きは、その働きを通して主なる神様を指し示す、私たちの救いのために送ってくださった独り子イエス・キリストを指し示すことにその本質があります。そして群れの信徒たちが、指し示された主イエス・キリストを見つめるためにその働きがあるのです。

このように福音宣教者(今日の牧師)が神様に仕えて働き、また信徒たちが御言葉を受け取って、皆が共に主に向かわせられるとき、教会の中に主にある一致が生まれます。最近、共に読みましたのでフィリピ書の言葉が思い起こされるわけですが、そこでもパウロは言っていました。「あなたがたフィリピの信徒たちが、最初の日から今日まで、福音にあずかっている(フィリピ1:5)」と。「福音にあずかっている」とは、「福音の交わり」という言葉なのでした。生きて働くキリストにある神の業、神の恵み。血の通った、キリストにある恵み。その中に、牧師も信徒も共に生かされているということです。あくまでも牧師個人への帰属意識ではなくて、キリストとの関係の中で、牧師と信徒は同じ福音の中で一つであって、主イエスによって一つにされているということなのです。これが重要です。

私たちが共に、神様に向かわされていくのであれば、神様はご自身の畑で豊かな実りを備えてくださいます。神様が生きて働いてくださいます。教会を、また私たちひとりひとりの信仰を成長させてくださるのです。私たちは、この成長させてくださる神様のお働きを共に仰ぎ見て、共に、神様の働きを担っていきたいと願うのです。