2021年07月04日「神の名の意味」
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神の名の意味
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- 金原堅二 伝道者
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出エジプト記 3章7節~15節
聖書の言葉
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」出エジプト記 3章7節~15節
メッセージ
本日の聖書箇所では、神ご自身が、自らの名前を明かされたことが記されています。古代において名前とは、単なる記号ではありません。その名前の持ち主の本質、もっている性質を言い表すものです。ですから神が、ご自身の名前を明かされるとは、神ご自身の本質‐神がどのような方であり、何をなさる方であるのか‐それを明かされた、ということに他なりません。
そもそも、神が御自分の名を明かされるのは、出エジプトという有名な出来事の中で起こりました。イスラエルの民がエジプトで奴隷状態にあった、その苦しみから救い出すという文脈の中で語られた言葉であったのです。7節を見てみますと、主は次のように言われます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。これとほぼ同じ内容が、9節でも繰り返されます。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」。ここでは「見た」「聞いた」「知った」という表現が立て続けに登場するのがわかります。神が「見た」とか「知った」と言う場合には、単に視界に入ってきたとか、どこからか聞こえてきた、というだけのことではなくて、神御自身がその実態を受け止めておられる、ということを表しています。思えば、2章の終わりの方、24節には「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」とあるわけで、イスラエルの人々の受けている実際上の苦しみを、神は受け止めておられるわけです。それで神は、8節で「わたしは降っていき、…彼らを救い出す」と語り、続く10節で、「その役目をモーセよ、あなたに与える」のだとお語りになります。
さて、エジプトにいて奴隷状態に苦しんでいるイスラエルの人々を、「お前がエジプトから導き出すのだ」と言われたモーセですが、そのモーセ自身はどこか自信がなさそうな受け答えをしています。11節「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか』」。「私にはいったい何ができるでしょうか。私には無理です」と言っているわけです。神は答えます。12節です。「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである』」。つまり、「私があなたを遣わす。あなたは『私は何者でしょう』と言うけれども、あなたには私がいるのだ。『私が』あなたと共にいて、『私が』あなたを支えるのだ」と、神様はモーセに言っておられるのです。ここに、神の臨在−神様は共にいてくださるお方だ−という、神様についての一つの本質が明らかにされているわけです。
13節でモーセは神の「名前」を問いました。名前を問うとは、神を呼ぶための「記号」が知りたいわけではないのです。つまり文字通り「あなたのことを何とお呼びすればよいのですか」ということではないのです。「名前は何ですか」という問いは、「あなたは何者ですか」という問いです。これからエジプトから民を救い出そうとして自分を派遣しようとしているあなたは、何者なのか。自分と共にいてくださるあなたは、何者なのか。それを問うているのです。
神は次のように言われました。14節。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。【わたしはある】という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」。ここで「わたしはある」で使われている言葉が、神の名前を説明した旧約聖書中唯一の箇所だと言われます。
聖書協会共同訳という、最近出版されたばかりの翻訳聖書が、ここを「わたしはある」ではなく、「わたしはいる」と翻訳しています。それは12節にありました「あなたと共にいる」との関係がよくわかるようにするためです。この、「わたしはいる(14節)」と「あなたと共にいる(12節)」はそれぞれ原文では同じ言葉が使われているからです。つまり、14節の神の名乗りには、直前の12節で言われたような「あなたと共にいる」こと、さらに言うと「あなたと共にいてイスラエルを救い出す」という神の救いの意思が表明された名乗りだと言うことができるのです。神は生きて働いておられ、歴史の中に働きかけてくださり、救いの御業を行ってくださるからです。それこそが、神の本質であり、それが「わたしはいる(ある)」という神の名に表れているのです。
神様はモーセの口と共にあり(4:12, 15)、そしてイスラエルの人々のただ中に宿られます(29:45)。それが、神様が人と関わってくださる在り方なのであり、従って神がイスラエルの人々のただ中で御業を成し遂げられる毎に、「神様はこういうことをしてくださる方なのだ」と私たちは知ることができます。歴史の中に生きて働いてくださり、救いの御業を成し遂げてくださる。「わたしはあなたと共にいる」とはそういうことなのであり、この神の名乗りを伴ってモーセはイスラエルの人々のところへ遣わされたのでした。
神様の救いの御業はモーセの時代のイスラエルに留まるものではありません。その後も神様は生きて働いておられるからです。そして私たちのために、全世界の人々のために成し遂げられた御業があります。私たちの罪を全て贖い、救いに入れるために名乗ってくださった新しい御名あります。イエス・キリストです。
その主イエスが言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28:20)」。イエスの名を知らされた者は、「共にいる」と言ってくださる主イエスの御名を伴って世の中に遣わされていきます。モーセが「あなたと共にいる」と主なる神様に約束されたように、私たちは「共にいる」と主イエスによって約束されています。この約束を伴って、私たちは世の中へ遣わされようとしているのです。この主イエスの名を呼び続けるときに、「主はこのようなことをしてくださった」と私たちは日々知ることができます。豊かな恵みを受け取ることができます。そのときに、神の名はますます豊かな意味をもつようになります。主の名を呼び求めて歩んで参りましょう。