2025年09月21日「ステファノの説教(2)〜モーセと律法〜」
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ステファノの説教(2)〜モーセと律法〜
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
創世記 12章34節~56節
聖書の言葉
35人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。 36この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。 37このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』 38この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。(抜粋、35〜38節)創世記 12章34節~56節
メッセージ
ステファノが裁判にかけられた際に、その容疑のひとつに「モーセと律法をけなした」というものがありました。ステファノはこれに弁明するために、モーセの生い立ちと召命の物語を、出エジプト記にしたがって語っていきます。その物語全体を通して彼の言いたい要点は、35節から38節にあります。その中でも特に「モーセのような預言者(37節)」とはイエス様のことを指している点で重要です。つまり、ステファノが冒涜したと言われるモーセその人は、実はイエス・キリストをあらかじめ指し示すひな型なのです。ですからイエス様に従うことは、決してモーセを冒涜することにはならない。それどころか、イエス様に聞き従うことこそがモーセを尊重することであり、神の言葉を尊ぶことに他なりません。
また、38節で、律法のことが「命の言葉」と表現されています。モーセは、神様から発せられる命の言葉を取り次いで語りました。イエス様は、命の言葉そのものが肉体をとったお方です(ヨハネ1:14)。このイエス様に聞きしたがうところにこそ、まことの命がある。そのことを、ステファノは伝えようとしています。
イエス様は、その地上生涯の中で、ご自分は律法を完成する者だということを証しされました。こんな言葉です。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)
イエス様はモーセ律法を廃止して、何か全く別の教えを語っているのではありません。イエス様が教えておられたことは、律法の教えと異なるものではまったくなくて、その本当の意味を教え、そこにある神様の御心を教えるものです。
では、その律法の本当の意味とは何でしょうか。あるとき、ひとりの律法学者がイエス様を試そうとして、次のことを質問しました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:34以下)。
それに対するイエス様の答えはこうでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」。
イエス様が教えてくださったように、これが律法の全体を貫いているものです。律法について考える際には、そこにある神様の御心に目を向けなければ意味がありません。それは結局、ひとことで言い表すならば「心から神を愛し、自分のように隣人を愛する」ということに尽きるのです。
神殿祭儀や、律法の細かい規定などに心を奪われて、律法の本質を見失っているのは、最高法院の指導者をはじめとする、ステファノを訴える人たちの方です。彼らは、一見、律法に忠実なように見えながら、そこにある神様の心を見失っています。律法を本当に守る者は、この意味でイエス・キリストに従う者であると言えます。そして、イエス・キリストに従って生きる道にこそ、神様と共に歩むまことの幸いがあるのです。