2025年09月14日「ステファノの説教(1)〜約束を与える神〜」

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ステファノの説教(1)〜約束を与える神〜

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 7章1節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

1大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。 2そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 3『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。 4それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、 5そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。 6神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』 7更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』 8そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。
9この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、 10あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。 11ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。 12ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。 13二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。 14そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。 15ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、 16シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。使徒言行録 7章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

 ステファノが語りましたように、イスラエルの歴史は、アブラハムから始まりました。アブラハムは、神様の言葉を受けて、神様の示す土地に旅立ったわけです(創世記12章)。

 その際に重要なことは、アブラハムが神の約束だけを携えて出発したということです。「神は、そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも」。こうステファノが言いましたように、アブラハムには見える「しるし」が何もありませんでした。つまりアブラハムの目に見える現実では、一歩の幅の土地さえも手に入っていないのです。そのような中で「いつかその土地を与え、子孫たちに相続させる」という約束だけを抱いて、その約束を信じて、旅立ったということです。

 また、アブラハムにも妻のサラにも、旅立ったときにはまだ子どもがいませんでした。アブラハムがハランを出発した時、彼は75歳であり、妻のサラは65歳です。常識的には、もう子どもが生まれる年齢ではありません。けれども、神様は彼らの子孫に「この土地を与える」と確かに約束なさいました。そして実際に、アブラハムが100歳のときに、息子のイサクが生まれ、イスラエルの祖先たちの歩みが始まっていきます。

 また、神様は、約束を実現するために、悪をも善に変えてくださるお方です。9節からは、ヨセフの物語が記されていきます。この9節以下につきましては、創世記37章から創世記の終わりまでのところに描かれているものです。ここでは簡単に触れるだけにしておきますが、まず9節にあるように、ヨセフは兄弟たちに妬まれて、エジプトに売り飛ばされてしまいました。しかし、10節にあるように、神様はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出し、ついにはエジプト全体を導く大臣にまでしてくださいました。このことが、後に飢饉という困難が起こった際に、イスラエルの民がエジプトに逃れて生き延びる備えになったのでした。

 このヨセフ物語を通してステファノが見つめていること。それは、神様が共にいて、ご自分の約束を実現してくださる、ということです。ここには、人間の罪が記されています。兄弟が妬んで奴隷に売り飛ばす、という、人間の心の汚い部分が描かれています。けれども、そういう人間の罪があってもなお、神様が共にいてくださり、その罪さえ用いて約束を果たしてくださるのです。その、神様の偉大さを、ステファノは語っています。

 アブラハムが生きた時代、ヨセフが生きた時代には、幕屋も神殿もありませんでした。けれども、神様はいつでもどこでも共におられました。そこには生き生きとした交わりがあり、礼拝がありました。今は、イエス・キリストを通して、また聖霊によって、私たちは、いつでもどこでも神様と共に歩む、新しい契約の時代です。イエス様を通して、神様と出会い、交わりをもつ。そこには生き生きとした交わりがあり、礼拝があるのです。