2025年09月07日「天使の顔のように」
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天使の顔のように
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 6章8節~15節
聖書の言葉
8さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。 9ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。 10しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。 11そこで、彼らは人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒瀆する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた。 12また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。 13そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。 14わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」 15最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。使徒言行録 6章8節~15節
メッセージ
今日の御言葉に出てくるステファノは、イエス様について行った先で迫害に遭い、まさに命を奪われようとしていました。苦悩で顔が歪んでいるのではないか。そう思って御言葉を読み進めてみると、その顔は、さながら天使の顔のようになっていたと言うのです(15節)。主である神様への信頼にしっかりと支えられて、恐れにとらわれず、与えられた使命を果たそうとしている。そういう天使のような顔です。かつてモーセが十戒を授かって、シナイ山から下ってきたとき、その顔が光り輝いていたと言われていますが、同じようにステファノの顔もまた、神様の栄光を見つめて光り輝いていたのではないかと思うのです.
キリスト者になるということは、何の労苦もなくなるということではありません。むしろそのことのゆえに労苦を担うことさえあります。難しい立場に置かれることもあります。けれども、そのような労苦の中で、天使のような顔をしていられるということなのです。恐れずに、主である神様への信頼にしっかりと支えられて、役目を果たすことができるということなのです。天使の顔のようになって、恐れずにまっすぐ歩み続けることができる。そういう平安が、ここにあるのです。
ステファノは聖霊に満たされて、恵みと力に満ちていました。知恵と信仰に満ちていました。迫害の中で、天使の顔のように見えるほどに、恐れずにイエス・キリストを証ししました。このようなステファノの姿を見て、私たちは何か、自分とは程遠い立派な人を見ているような印象を抱くかもしれません。確かに、ここにはステファノという人物だからこそ持っていた資質は含まれていたことでしょう。ステファノが持っていた聖書知識、性格、熱心さなど、そういったものはあったと思います。しかし、それを豊かに用いてくださるのは、聖霊なる神様です。聖霊が働いてくださらなければ、彼のもっている賜物が、ここまで豊かに用いられることはなかったはずです。その意味で、この御言葉を読んで私たちは「ステファノが立派だ」ということで終わってはいけません。ステファノが立派なのではなく、彼をそのような恵みで満たしてくださるイエス・キリストが偉大なのであり、彼の賜物を用いてくださる聖霊が素晴らしいのであり、このことを計画してくださる父なる神様が賛美されるべきなのです。
私たちも、今日の御言葉を通してよく覚えておきたいと思います。今日の御言葉に描かれるステファノの働きは、確かにめざましいものですが、その働きは神様の力、聖霊の働きを祈り求めるところに与えられたものです。教会の奉仕や、伝道の業はそのようにしてなされていくのです。私たち自身に力があるのではありません。けれども、私たちの力や資質はどんなに小さく貧しいものであったとしても、聖霊のお働きを祈り求めて、神様の恵みと力をいただいて精一杯に神様にお仕えしようとするならば、そこに神様が働いてくださり、教会を建てあげていくような働きが与えられるのです。