2021年11月14日「神の祝福と摂理」
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神の祝福と摂理
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- 金原堅二 伝道者
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ルツ記 4章1節~22節
聖書の言葉
ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミのてから買い取ったことの証人となったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです」。(9〜10節)ルツ記 4章1節~22節
メッセージ
ボアズが町の門のところへ行って座ると、ボアズが話していた、自分以上に家を絶やさぬ責任ある親戚が折よく通り過ぎようとしました。ボアズは「引き返してここにお座りください」と呼び止め、事の経緯を説明します。すなわち、ボアズはその親戚に、モアブの地から帰ってきたナオミが、エリメレクの畑を売ろうとしていることを告げ、もしその畑を買い戻すつもりなら、民の長老たちの前で買い戻すと言って欲しい、もし買い戻さないなら、そのように言ってほしい、と提案するわけです。
前回も申しましたが、土地の買い戻し、ヘブライ語で「ゴエル」については、親族が本来果たすべき義務であって、この親族も初めは受け入れようとしていました。この親族の立場としても、土地を買うだけならば、ナオミからそれを買っても、それほどの負担にはならなかったと思われます。いやむしろ、お金を払っても、その土地を耕して、収穫を得ることができるので決して悪い話ではないわけです。ところが、ここでルツとの結婚が伴うとすると話は変わってきます。親戚にとって、そこには何のメリットもありません。お金を払って土地を買い戻しても、ルツを妻として、ルツとの間に子どもができたら、その子どものために土地を返してやることになってしまうからです。こういうわけで、この近い親戚の者は6節で「そこまではできかねます」と、「それではわたしの嗣業(つまり土地)を損なうことになります」と言って、結婚(レビラート婚)の義務までは果たすことができないと意思表示したのでした。
こうしてボアズは、エリメレクと二人の息子のすべてのものを買い取ったこと、それから死んだ者の名をその相続地に興すためにマフロンの妻であったモアブの女ルツを買い取って、自分の妻としたことを宣言したのでした。町の門に集まっていた全員の前で、贖いの宣言をしたのです。
さて、町の門で起こった出来事を記した後、ルツ記は凄まじい勢いで、終結に向かっていこうとします。13節に、その後の経緯を要約するようにして、次のように記されています。「ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」。ここで注目したい言葉は、「主が身ごもらせた」という一言です。ルツ記では神様の直接的な介入がほとんど記されていません。挙げることができるのは、1章6節で「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」と書いてあっただけです。
子どもが与えられるというのは、ルツにとっては決して当たり前の出来事ではありませんでした。ルツはモアブで亡き夫マフロンと結婚しておそらく10年の月日を過ごしましたが、そこでは子どもが与えられませんでした。そうであるから、ルツの結婚問題が、土地の贖いと一緒になってここまで問題となっていたわけです。けれども、主が主権的に直接介入したこの二つの出来事を通して、物語は祝福へと向かっていくのです。まず、主によってベツレヘムに食べ物が与えられることによって、ナオミは再びベツレヘムに顔を向けることとなりました。飢饉によって、生活の糧を得るためにモアブに移住したのに、ナオミは空っぽになってしまったけれども、主はただ一方的な恵みによって、ナオミをご自身のみもとに引き寄せてくださいました。そのときに、ルツを通して、ご自身の祝福を実現する道筋を整えておられたのです。ご自身のみもとで満たしてくださる、その道筋を整えておられたのです。そして神様は、今度はルツに男の子を身ごもらせてくださったことによって、いよいよ祝福を確かにしてくださいました。
これは、姑のナオミにとっても魂の生き返り(15節)を経験する出来事でした。かつて「私のことはナオミ(快い)」と言わないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言っていたナオミの悲しみは今、喜びに変えられたのです。
産まれた子はオベドと名付けられましたが、このオベドは、エッサイの父であり、エッサイはダビデの父です。マタイによる福音書の冒頭を見ますと、わたしたちの救い主、まことの贖い主、イエス・キリストがここからお生まれになったとわかります。イエス・キリストはダビデの子孫から生まれて来られたからです。神様のご計画は、私たちの想像をはるかに超えています。神様の救いの歴史はこのように、ただ神様の主権的な選びによって進められます。
私たちもまた、神様の恵みに与るよう招かれています。私たちは本当に小さな者にすぎませんが、神様はこのような小さな者をもご自身の救いの計画にしっかりと組み込んでくださっているのです。神様は主イエスをこの地上に送ってくださったことで、罪の奴隷にあった私たちを、主イエスの十字架の死と復活によって贖ってくださったのです。このことによって、私たちは魂の生き返りを経験します。私たちは主がお与えくださった主イエスを信じて、御言葉を通して主のみもとに留まり、安らうときに、救いの恵みを確かに味わいます。
ルツ記の舞台設定は士師の時代であると何度か申しました。士師の時代は、まだイスラエルに王がいなかったころ、それぞれが自分の目に正しいとすることを行なっていた時代です。そこには霊的な堕落があり、暗い影を落とす時代です。このような背景の中で、主がただ御心に従って進めておられる救いのご計画は、あたかも暗闇に光が差し込むように、豊かに実現していきます。私たちは、神様の目に正しいことが何なのか、主の御心を祈り求めながら、主イエス・キリストによって成就した神様の祝福、救いの恵みを味わいながら歩んでいきたいと願います。