2025年05月25日「イエスによって祝福を受ける」

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イエスによって祝福を受ける

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 3章11節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

11さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。 12これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。 13アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。 14聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。 15あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。 16あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。 17ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。 18しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。 19だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。(11~19節)使徒言行録 3章11節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 このペトロの説教の中で、足の不自由な男性に起こった出来事を説明しているのは、今お読みした12節と16節だけです。「男性が癒やされた」という、その出来事はこの説教の「きっかけ」ではありますが、中心的なテーマではありません。ペトロはむしろ、癒しの源であるイエス・キリストについて、言葉を尽くして説き明かしているのです。

 ペトロは、イエス様の十字架と復活を語ることによって、人々の罪の問題を指摘しています。けれども、ペトロは、罪の責任を迫って人々を追い詰めようとしているわけではありません。ペトロの願いは、その先にあります。ペトロ自身も、先ほど触れましたように、イエス様に対して背を向けて、十字架の際には逃げ出してしまいました。これを語っているペトロ自身も、十字架の責任を負う者なのです。けれども、ペトロは復活のイエス様に出会い、その罪を赦していただきました。イエス様の憐れみを受けて、イエス様の恵みの中に置かれています。彼は、人々を同じ恵みの中に招きたいのです。

 ペトロ自身もまた、十字架の際にイエス様を裏切ってしまったのは無知のためでした(17節)。イエス様が復活するほどの栄光あるお方だとわかっていなかったために、三度も「知らない」と言って拒んでしまったのです。そうだから、イエス様の栄光を知って悔い改めたときに、罪を拭い去っていただいたのです。

 私たちもそうです。イエス様がどういうお方かがわからないうちは、なかなか受け入れることができない。教会に来て、聖書のお話を聞いていても、最初のうちはよくわからないことが多いと思います。よくわからないうちは、すぐに「信じます」とは言えないでしょう。むしろ「私には神などいらない、自分でやっていける」と息巻いてしまうものです。あるいは、今信じて洗礼を受けている方も、信じる前はキリスト教会に、また聖書の御言葉に無頓着どころか、どこか冷淡で拒否をしていたのかもしれません。けれども、今日の御言葉にありますように、イエス様は真実、「命の導き手」であられます。神様は御言葉を通して、今、私たちにそのようにイエス・キリストを告げておられるのです。

 私たちは、どれだけ「自分の力で生きていける」と思ったとしても、本当のところは「命の導き手」であるイエス・キリストの名を必要としています。この世でどれだけ成功をおさめても、肉体の死に対しては無力です。いや、死後のことだけではありません。この地上の生涯においても、その無力を感じることはいくらでもあります。神様は、そのような私たちの命を握るお方です。ご自分の独り子を十字架にかけてでも、私たちを生かそうとされるお方です。しかもただ生かすのではなく、私たちに「あなたを愛する」と告げてくださるお方です。私たちを愛のうちに生かすお方です。その神様の愛が最もよく現れているのが、イエス・キリストの十字架と復活なのです。

 神様のところには、イエス・キリストのゆえに、赦しがある。和解がある。慰めがあり、希望があるのです。