2025年05月18日「イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」
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イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
使徒言行録 3章1節~10節
聖書の言葉
1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。 4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。 10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。使徒言行録 3章1節~10節
メッセージ
その日、ペトロたちは午後3時の祈りの際に、神殿に上っていきました。すると、そこに足の不自由な男性が運ばれてきたと言うのです。「神殿の門のそばに置いてもらっていた」とありますように、彼は神殿の入り口で物乞いをするのが日常でした。実は、彼は神殿の「中に」までは、入っていくことができない立場にありました。当時は、足の不自由な人は神殿の中に入れない、という決まりがあったのです(サムエル下5:8)。ですから、彼が癒やされて神殿の「中に」入って神を賛美したというのは、彼の人生で初めての経験だったはずです。その意味で、この人は、イエス・キリストの名によって、神様との交わりに回復されたのです。今日の出来事の本当に素晴らしいところは、ここにあります。
ペトロには、金や銀はありませんでした。けれども、一人の男性を立ち上がらせるもの、すなわち「イエス・キリストの名」を持っていました。それは、今も教会が持っているものであり、求める人に差し出すことのできるものです。
今日の御言葉に出てくる男性は、もともとは生きていくのに最低限必要な施しを求めて、それ以上のことは求めていませんでした。それ以上を求めることすらできなかった。そういう困窮と悲惨の中で、毎日を過ごしていたのです。目の前には、毎日、何百、何千という人が通り過ぎていきますが、そこで本当に彼の心に触れてくれた人はほとんどいなかったでしょう。この人は、施しを乞うという仕方で、多くの人には接していました。けれども、本当の出会い、人格の触れ合う出会いというものはほとんど体験したことはなかったのです。
4節のところで、そのような男性に対して、ペトロとヨハネはまず「じっと見つめた」と書いてありました。さらにペトロはこの男性にも「わたしたちを見なさい」と求めています。これは要するに、お互いにありのままの相手をしっかりと見つめ合う人格的な交わりを求めたのです。本当にその人自身を見出すための眼差しを、互いにもとうとしたのです。今まである意味で人間扱いすらされてこなかったこの人に対して、真正面から見て、向き合っていきます。顔と顔を合わせて、人と人としての対話をしようとしています。ここから、ペトロたちとこの男性との関係が始まり、この男性とイエス様との関係が始まり、この人が一人の人格ある人間として立ち上がることができたのです。その意味で、この物語は、ペトロたちを通して一人の男性がイエス様に出会い、立ち上がっていく物語として受け止めることができます。つまりペトロたちが差し出したものは、「この男性を救おう」とするイエス様の愛の眼差しであるのです。
私たちが持っているものとは、こういうものです。痛みや、疲れを覚えて、教会に何かを求めて訪ねてくる方に、私たちが差し出すことができるもの。それは、私たちのためにご自身の命をささげてくださった主イエス・キリストの愛であり、その愛の眼差しの中で、私たちは人間らしく立ち上がることができるのです。