2025年04月20日「復活のイエスこそ神が遣わされたメシア」

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復活のイエスこそ神が遣わされたメシア

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 2章22節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。 23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 25ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
主がわたしの右におられるので、
わたしは決して動揺しない。
26だから、わたしの心は楽しみ、
舌は喜びたたえる。
体も希望のうちに生きるであろう。
27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
あなたの聖なる者を
朽ち果てるままにしておかれない。
28あなたは、命に至る道をわたしに示し、
御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 31そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、
その体は朽ち果てることがない』
と語りました。 32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 34ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
35わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするときまで。」』
36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」使徒言行録 2章22節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 ここで、ペトロが言おうとしていることは、ひとことで言うならば「復活のイエスこそ、神が遣わされたメシアである」ということです。そのことを論証するために、特に二つの証拠を用いて語っていきます。第一に「イエス様の復活」であり、第二に「イエス様の昇天」です。

 まずイエス・キリストの復活を訴えかけるにあたり、ペトロは25節以下で、旧約聖書に記されたダビデの詩編を引用します。ここで引用されている御言葉は、旧約聖書の詩編16編8節〜11節です。詩編16編は、イエス様の時代よりさらに1000年も昔に、イスラエルの王ダビデが歌った、とされているものです。ペトロの理解によると、旧約聖書に預言されているメシアとは、復活する者のことです。ダビデは復活しませんでした。けれども今、イエス・キリストは確かに復活なさって、ペトロたちとも会われた。だからこそ、復活したイエスがメシアなのだ、という、こういう理屈なのです。

 ペトロが旧約聖書を引用して伝えようとしているもう一つの証拠は、イエス・キリストが天に昇って神の右に着座されたことです。ペトロは34節で、先ほどとは別の詩編を引用して語りました。ここで引用されたのは、詩編110編1節です。これもまた、ダビデの詩編でありますが、ここでも、これはダビデの身に起きることではなく、ダビデの口から、来るべき救い主であるイエス・キリストについて預言されたものであると理解されています。ダビデは天に昇りませんでした。しかし、イエス・キリストは確かに神の右に上げられたのです。 

 また、聖霊の注ぎにはイエス様が関わっておられる、ということが33節で語られます。ペンテコステの日に、今、人々の目の前には様々な言語を話す弟子たちの姿があります。その現象が目の前で起こっていることは、聖霊が注がれたことの動かぬ証拠です。そしてその聖霊の注ぎには、イエス様が深く関わっておられる、と言うのです。イエス様は約束されたメシアであるからこそ、復活され、天にあげられて、今は神の右に座っておられます。そのイエス様が神の右にあげられたからこそ、聖霊が注がれている。そのように全てのことが「イエス・キリストがメシアである」という一つの事実で繋がっていることを、ペトロは人々に説得しているわけです。

 以上のように、イエス様の十字架も、復活も、昇天も、聖霊が注がれたことも、全ては神様のご計画の一環であり、分かち難く結びついています。神様はこれらの御業の全体を通して、私たちの罪を赦し、新しく生かしてくださるのです。

 私たちのもつ罪の現実が、神様の恵みのご計画によって乗り越えられ、イエス・キリストと共に生きる新しい道が今や開かれました。とりわけイエス様の復活は、罪と死の力に対する神様の恵みの勝利を決定づける出来事です。イエス様のゆえに、私たちは罪の赦しをいただき、神様の愛のうちに新しい命を喜んで生きることができるのです。