2025年04月06日「約束された聖霊を注がれて」

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約束された聖霊を注がれて

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
使徒言行録 2章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。使徒言行録 2章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 聖霊を受けた使徒たちが始めたことは、他の国々の言葉で話し始めることでした。ただし、ここで御言葉が伝えたいことは、語学力が身について外国語を獲得した、ということではありません。使徒たちはこのとき、多様な言語で話し始めましたが、それは一時的な奇跡であって、永続することではありませんでした。それよりも重要なことは、彼らが語っていたことが何か、その語り出した内容にあります。人々は「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言って、大変驚いています(11節)。使徒たちが話したことは、神様の偉大な御業だったわけです。ここでは特に、まだ起こったばかりの出来事である、イエス・キリストの十字架と復活の御業のことでしょう。イエス・キリストを大胆に語る、その福音宣教の言葉が与えられた。これこそ、聖霊が注がれることによって与えられた力の本質です。

 当時、ユダヤ人たちは、あらゆる国に散り散りになって住んでいました。その中でも特に信心深いユダヤ人が、エルサレムに帰ってきていました。そのような各地に散らばっていたユダヤ人たちが、自分たちの生まれ故郷の言葉を聞いて、心底驚いている様子が、ここに描かれているわけです。

 ところで、人々がやってきた各地では、現地特有の言葉ももちろんありましたが、実はそれとは別に当時の共通言語もありました。それはアラム語とギリシャ語です。ですから、実際にはそれぞれの地域の言語が用いられなくても、ギリシャ語かアラム語が話されれば、人々はある程度理解することができたはずです。ところが、ここではそれぞれの地域で、地元の人が用いている言語が、話されたのです。故郷を離れて暮らす人々にとって、地元に言語が話されていることの安心感は強いものです。その「故郷の言葉」で、「わたしたちの言葉で」、イエス・キリストの福音が語られました。それは、ただ頭で理解できるというだけではなくて、心から受け止められる言葉で語られた、ということでしょう。本当に心に染みる福音として、イエス・キリストの御業がその人たちに届いたのです。そのような言葉を与えたのは、聖霊です。こうして、聖霊の言葉による福音宣教がここから始まって、全世界に広がり、それが世の終わりまで続く。そういうことが、ここに示されているのです。

 集まってきた人たちは、実に多様な人たちでした。出身地も違えば、話している地元の言語も違います。しかし、聖霊が降ると、国境を超えて、言語の違いを超えて、文化の違いを超えて、イエス・キリストにおいてひとつとなるのです。そのような恵みに満ちた教会の姿が、すでにここに示されています。多様な人々が、豊かな恵みを分かち合うとき、教会は健やかに成長する。様々な違いをもった多様な私たちが、主の愛を心から受け止め、その恵みを分かち合う。そのような共同体として、滋賀摂理教会もますます成長に導かれていきたいと願います。