聖書の言葉 「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(9節)ルツ記 3章1節~18節 メッセージ ルツがボアズの畑地で落ち穂を拾わせてもらっている間、姑のナオミは、異国の地から来たルツが幸せになるために、ボアズと結婚することが良い事だと考えていたようです。そこで、ナオミはルツにいくつかの指示を出します。 まず、ボアズが今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けることがわかったので、体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下っていくようにと言いました。このようにして、身を美しくよそおって、彼のところに行くように指示をしたわけです。4節にあります、「あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」という表現は、着物の足元をまくってそこにもぐり込む、という意味です。これは非常に大胆な行動に思われますが、ボアズを誘惑することを意図したものではなくて、当時のイスラエルの習慣に基づいて、要するに結婚を求める行動として、このような指示を出したのです。 ルツはナオミに言われた通りに実行していきます。ボアズが「お前は誰だ」と尋ねると、ルツは「衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と結婚を訴えかけ、そして、「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と訴えかけます。 「家を絶やさぬ責任」とは原文の発音では「ゴエル」と言います。これは「贖う者」あるいは、「買い戻しの権利をもつ者」という意味をもつ言葉であり、旧約聖書ではしばしば神様を主語として使われます。 例えば出エジプト記では、エジプトで奴隷とされたイスラエルの民を、神様が「贖われた」(出15:13)と語りますし、もっと後の時代、イスラエルの民がバビロン捕囚にあったときには、預言者イザヤは、神様がイスラエルを「贖う」と語ります。 「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1)。 イスラエルの民が、「買い戻す」と言うときには、直接的には、レビ記に規定されている「土地の買い戻し」のことを言っています。律法の規定によって、イスラエルの民が、その貧しさのために土地を手放さなければならなくなったとき、その土地を買い戻すことは、親族の義務とされていました。このことはレビ記25章24節に記されています。 ところが、ルツ記のこの箇所で用いられている「ゴエル」には、ひとつ独特な点があります。ルツ記の場合には、「ゴエル」を、土地の買い戻しに加えて、結婚に関する権利または責任との関係で用いているという点です。ルツ記以外のどの箇所においても、「ゴエル」が結婚との関連で使われることはありません。結婚に関して、ある男性が彼の兄弟の寡婦(=やもめ)と結婚して、家を存続させるというような場合の権利や責任は、これまでも話題になっていた「レビラート婚」の規定であって、申命記25章5節以下に記されているものです。レビラート婚は、死んだ夫の名が絶えないようにする義務なのでありました。そしてレビラート婚は、兄弟に対する義務であって、通常親戚に適用されるものではありません。 ですから「ゴエル」と「レビラート婚」は通常別々のことなのですが、ルツ記においては、この二つの領域が重なるようにして「家を絶やさぬ責任」と語られるわけです。この点が、後に第4章のボアズと親族との交渉に影響していきます。 ルツの大胆な申し出に対して、ボアズもまた誠実に答えていきます(10節以下)。「今あなたが示した真心は、今までの真心よりもまさっています(10節)」とありますが、「今までの真心」とは、ルツがナオミにこれまで振る舞ってきた真心でしょう。そして「今あなたが示した真心」とは、このときルツがボアズに贖いの責任を求めて身を差し出した真心です。これを見て、ボアズもまた、誠実に、真心をもって事を進めるよう、「きっと、あなたが言う通りにします」と答えます。そして、自分以上に、家を絶やさぬ責任のある人物がいるので、続く第4章で、折り合いをつけていこうとするわけです。 第3章で登場する人物たちから、私たちは主の御心に従って委ねて生きる信仰を見ることができます。ナオミはルツの幸せを願って計画を立てましたが、これは主の掟に基づいたものでした。ルツはナオミの計画に従って行動していきますが、それはナオミに対する真心に従って生きる道を選んだからであり、ナオミの神である主の御翼のもとに逃れ、委ねて生きる道を選んだからなのでありました。ボアズもまた、ルツからの申し出に対して、これをあくまでも神様の掟に従って受け入れていこうとしています。このような生き方を通して、神様の祝福は豊かに現れていくことになります。
ルツがボアズの畑地で落ち穂を拾わせてもらっている間、姑のナオミは、異国の地から来たルツが幸せになるために、ボアズと結婚することが良い事だと考えていたようです。そこで、ナオミはルツにいくつかの指示を出します。
まず、ボアズが今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けることがわかったので、体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下っていくようにと言いました。このようにして、身を美しくよそおって、彼のところに行くように指示をしたわけです。4節にあります、「あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」という表現は、着物の足元をまくってそこにもぐり込む、という意味です。これは非常に大胆な行動に思われますが、ボアズを誘惑することを意図したものではなくて、当時のイスラエルの習慣に基づいて、要するに結婚を求める行動として、このような指示を出したのです。
ルツはナオミに言われた通りに実行していきます。ボアズが「お前は誰だ」と尋ねると、ルツは「衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と結婚を訴えかけ、そして、「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と訴えかけます。
「家を絶やさぬ責任」とは原文の発音では「ゴエル」と言います。これは「贖う者」あるいは、「買い戻しの権利をもつ者」という意味をもつ言葉であり、旧約聖書ではしばしば神様を主語として使われます。
例えば出エジプト記では、エジプトで奴隷とされたイスラエルの民を、神様が「贖われた」(出15:13)と語りますし、もっと後の時代、イスラエルの民がバビロン捕囚にあったときには、預言者イザヤは、神様がイスラエルを「贖う」と語ります。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1)。
イスラエルの民が、「買い戻す」と言うときには、直接的には、レビ記に規定されている「土地の買い戻し」のことを言っています。律法の規定によって、イスラエルの民が、その貧しさのために土地を手放さなければならなくなったとき、その土地を買い戻すことは、親族の義務とされていました。このことはレビ記25章24節に記されています。
ところが、ルツ記のこの箇所で用いられている「ゴエル」には、ひとつ独特な点があります。ルツ記の場合には、「ゴエル」を、土地の買い戻しに加えて、結婚に関する権利または責任との関係で用いているという点です。ルツ記以外のどの箇所においても、「ゴエル」が結婚との関連で使われることはありません。結婚に関して、ある男性が彼の兄弟の寡婦(=やもめ)と結婚して、家を存続させるというような場合の権利や責任は、これまでも話題になっていた「レビラート婚」の規定であって、申命記25章5節以下に記されているものです。レビラート婚は、死んだ夫の名が絶えないようにする義務なのでありました。そしてレビラート婚は、兄弟に対する義務であって、通常親戚に適用されるものではありません。
ですから「ゴエル」と「レビラート婚」は通常別々のことなのですが、ルツ記においては、この二つの領域が重なるようにして「家を絶やさぬ責任」と語られるわけです。この点が、後に第4章のボアズと親族との交渉に影響していきます。
ルツの大胆な申し出に対して、ボアズもまた誠実に答えていきます(10節以下)。「今あなたが示した真心は、今までの真心よりもまさっています(10節)」とありますが、「今までの真心」とは、ルツがナオミにこれまで振る舞ってきた真心でしょう。そして「今あなたが示した真心」とは、このときルツがボアズに贖いの責任を求めて身を差し出した真心です。これを見て、ボアズもまた、誠実に、真心をもって事を進めるよう、「きっと、あなたが言う通りにします」と答えます。そして、自分以上に、家を絶やさぬ責任のある人物がいるので、続く第4章で、折り合いをつけていこうとするわけです。
第3章で登場する人物たちから、私たちは主の御心に従って委ねて生きる信仰を見ることができます。ナオミはルツの幸せを願って計画を立てましたが、これは主の掟に基づいたものでした。ルツはナオミの計画に従って行動していきますが、それはナオミに対する真心に従って生きる道を選んだからであり、ナオミの神である主の御翼のもとに逃れ、委ねて生きる道を選んだからなのでありました。ボアズもまた、ルツからの申し出に対して、これをあくまでも神様の掟に従って受け入れていこうとしています。このような生き方を通して、神様の祝福は豊かに現れていくことになります。