2025年03月02日「復活を待つとき」
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復活を待つとき
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章57節~66節
聖書の言葉
57夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。 58この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。 59ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 60岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
62明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、 63こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。 64ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」 65ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」 66そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。マタイによる福音書 27章57節~66節
メッセージ
この御言葉は、イエス様の復活を待つときについて語ります。イエス様は十字架の上で死なれ、葬られました。女性たちがこれを見守ったこと、アリマタヤ出身のヨセフが遺体を引き取ったこと、祭司長たちが復活を妨害しようとしたこと、その全ての動きが、イエス様復活の舞台を整えます。人間の善意も悪意も、その全てが神様のご計画の中で、一つの目的に向かって動いていきます。
イエス様の葬りには「この方が本当に死なれた」ということを証しする意味があります。仮死状態というものではなく、確かに死なれた、間違いなく死なれたということです。そうだから、イエス様が墓に葬られたのだということを、聖書は語っています。イエス様は苦難を極められました。「復活するから大丈夫」なんていう意識で死なれたのではない。苦難を極めて、間違いなく死なれたのです。そして、イエス様が苦難を極め、間違いなく死なれたということは、私たちに代わって神の裁きをしっかり負われたということなのです。そのことによって、私たちの赦しが確かであると言うことができるのです。
イエス様は、十字架において、私たち罪人と一つになってくださいました。でも、それだけではありません。イエス様は、肉体の死と葬りにおいても、私たちと一つになってくださったのです。このこともまた、重要です。私たち人間は皆、いずれ肉体の死を迎えます。そのことは、一方で私たちに恐れを抱かせます。人は皆、死ぬ時には一人だと言われます。けれども、厳密に言えば、私たちは死ぬ時に一人ではないのです。イエス・キリストが確かに死なれた。このイエス・キリストが、私たちの死においても、共におられる。私たちの死と葬りにおいても、共におられる。イエス様が死と葬りにおいても、私たちと一つになってくださったからです。その意味で、主が共におられる、すなわちインマヌエルという事態は、肉体の死においても墓においても、変わることがないのです。私たちはこの地上世界において、イエス様と結ばれているだけでなく、後にも先にも一回だけ経験する肉体の死においても、イエス様に結ばれています。イエス様は、そこにおいても私たちと共にいて、永遠の御国へと道案内してくださいます。私たちはいつでも主の愛に守られ、主の愛に包まれているのです。
私たちはいずれ、肉体の死を迎えるとキリストに結ばれてその魂はただちに天に引き上げられます。肉体もまた、キリストに結ばれて墓の中で休みます。でも、私たちの命はそこで終わりではありません。やがて終わりの日、主の再臨の日に、キリストと共に復活する希望があるのです。イエス様の復活は、私たちの復活の初穂です。私たちもまた、父なる神様の確かなご計画の中で、復活を待つ時を過ごすのです。そのように、この地上生涯を送っている間も、肉体の死を迎えてからも、私たちは神様の確かな愛の御手の中で守られています。イエス様が確かに死なれ、葬られたということには、このように私たちの死と葬りと一つとなってくださったという慰めがあるのです。