2025年02月23日「イエス・キリストの死」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

イエス・キリストの死

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章45節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 55またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 56その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。マタイによる福音書 27章45節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という叫びは、ここに解説されていますように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉です。神が、私を見捨てている。イエス様はそのように叫ばれました。ここに、神様の裁きの激しさが現れています。罪人が受けるべき神様の裁きがどれほど激しいものであるかが端的に示されているのです。

ここでイエス様は父なる神様に対して「わが神」と呼びかけておられます。イエス様が「わたしの神よ」と呼びかけて祈られているのは、実はここだけです。イエス様は、いつも親しく「わたしの父よ」と祈られました。しかし、ここでは「父よ」と呼びかけるのではなく、「神よ」と呼びかけておられます。それは、ここでは罪人として処罰されているイエス様が、罪人そのものの立場から呼びかけておられるからです。

 イエス様が十字架の上で死なれたそのとき、その十字架の周りでも異変が起こっていました。まず、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたということです。ここでの神殿の垂れ幕とは、神様の臨在の場と言われる至聖所の入り口のことです。この至聖所には、祭司がイスラエルの民のあがないのために、年に一度しか入ることが許されなかった場所です。しかし、今、イエス様が十字架の上で裁きを完全に引き受けてくださり、罪の贖いとしての血が流されました。そのことによって、神様と私たち人間を隔てる垂れ幕は必要がなくなったのです。罪が許され、神様と私たち人間が、交わりを共にする道が開かれたのです。今やもう、隔ての垂れ幕は必要ありません。私たちは、イエス様の贖いによって、はばかることなく大胆に神様に近づいていけるようになったのです。

 イエス様の十字架を取り囲んでいた人々もまた、ただならぬ様子を感じ取ったのでしょう。興味深いことに、ここでローマの兵士をとりまとめる百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白しています。

私たちも、十字架を描くこの福音書の光景を読み、「本当に、この人は神の子だった」と受け止めたい。そのように導かれたいと願っています。聖書が語る救いの出来事は実に不思議です。イエス様は十字架の上で差し貫かれて、弱々しいお姿で、そこに救いを見るなど愚かだ、と普通は考えるでしょう。けれども、私たちはその愚かな十字架に、私たちの救いを見るのです。神様が、イエス様が私たちのためにお示しくださった愛を見るのです。私たちの汚れと罪とあらゆる悪を引き受けて、十字架につけられて死なれたイエス様のお姿を見るのです。

 十字架につけられた神の子イエス・キリストこそ、私たちの救い主です。このことを受け止めるところで、神様との祝福された交わりの世界が開け、肉体の死で終わらない永遠の命の世界が開けるのです。神様は、その祝福の中に、私たちを招いておられます。必要なことは、ただイエス・キリストを「私の救い主」と受け止める。その一点だけです。