2025年02月09日「バラバか、キリストか」
問い合わせ
バラバか、キリストか
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章11節~26節
聖書の言葉
11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。 12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。 13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。 14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。 16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。 17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。 22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。マタイによる福音書 27章11節~26節
メッセージ
今日の御言葉の中で、イエス様が十字架につけられる代わりに釈放された人物がいました。バラバ・イエス(16節)です。
当時、イエスという名前は一般的だったそうで、その意味は「主は救い」という意味の名前です。さらに言うと、「バラバ」の方は「バル・アバ」というアラム語から来た名前で、「父の子」「お父さんの子ども」という意味の名前です。ですから「バラバ・イエス」という彼の名前は「お父さんの子ども、主は救い」という意味がありました。そこから思い巡らしてみますと、きっと彼が生まれた時には「これはお父さんの子だ!主が救ってくれますように!」という喜びと願いを込めて、親から名付けられたのではないかと思います。
けれどもいつの日か、バラバは、そんな自分の名前に込められた本来の生き方から外れて生きるようになっていきました。そして、ここでイエス様の代わりにバラバの名前が出てくるということは、本来はバラバが十字架刑の執行を待つのみの状態になっていたということです。犯罪を犯し、捕まって、死刑を待つのみになっていたということなのです。
そのような死刑を待つだけになっていた男が、今日の御言葉では結果的に釈放されたことになります。それは、言い方を換えるならば、イエス様が死ぬ代わりに、命を救われたということなのです。イエス様が、バラバが背負うはずだった十字架の死を、代わりに背負われたということなのです。そして、死ぬはずだった彼には、まったく新しい人生が与えられることとなりました。
ここで命救われたバラバという人物は、今の私たちの姿に重なると思います。私たちは本来、神の息を吹きかけられ、神様と共に、祝福の中で生きる存在でした。それが、いつの日か神様を離れ、互いに傷つけ合い、生きているのに死んでしまったかのような生き方をするようになってしまいました。そのままいくと、神様の最後の裁きのうちに滅びを待つだけの存在になってしまいました。
しかしそんな私たちの人生に、イエス・キリストが突然入って来られます。そして、私たちが受けるはずだった死の裁きを、一身に引き受けていかれるのです。この、神の御子イエス・キリストを信じるところから、私たちの新しい人生が始まります。御子の命によって、私たちに命が与えられる。神の祝福のもとで生きるようになる。神様に愛されて「お前は私の子だ!救いのうちに生きるように!」と言っていただける。そういう人生が始まるのです。
今日の御言葉に示されるイエス・キリストの姿。それは、私たちを生かすための苦難のしもべの姿です。その血の責任は、私たちの誰も免れるものではありません。けれども、そこで真心から悔い改めて、キリストに向かって方向転換する人は、驚くばかりの命の恵みをいただくようになります。滅びを待つはずだった私たちの命が、永遠に神様の祝福のうちに生きるという、喜びに満たされた命に変えられるのです。そのために、私たちに必要なことはただひとつ、イエス・キリストを受け入れることだけです。