2025年02月02日「ユダの後悔」

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聖句のアイコン聖書の言葉

1夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。 2そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
3そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 5そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 6祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、 7相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。 8このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。 9こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。 10主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」マタイによる福音書 27章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様を否定したペトロと、イエス様を裏切ったユダ。この二人の姿は、イエス様を裏切ったという意味では似ているのですが、その結末が異なっています。ペトロは、復活のイエス様に出会って、再び弟子として用いられます。それに対してユダは、後悔の先で首を吊って自ら命を絶ってしまうのです。ペトロとユダは、いったい何が決定的に違っていたのでしょうか。

 ユダは「後悔した」と記されていました。この「後悔」という字は、「悔い改め」とは違う表現です。「後悔」と「悔い改め」は、ギリシャ語で見ると違う言葉なのです。ここで使われている「後悔」とは、自分のしたことについて、それをしなければよかったと後から悔やむことです。それに対して、悔い改めとは「方向転換」することを言います。自分の罪を認めてそれを悔い、神様のもとに方向転換することです。つまり罪ある人間が、神様に立ち返ることです。

 その意味で、ユダは、後悔はしましたけれども、神様のみもとに方向転換することをしなかったのです。ですからユダは、イエス様のみもとではなく、祭司長たちのところに向かいました。ユダは、確かにイエス様を引き渡したことについて「罪のない人の血を売り渡した」と言って後悔しています。しかし、それがどんなに良心の呵責から出たことであったとしても、人生の方向は少しも変わっていないのです。もし、ユダが本当に悔い改めているのであれば、イエス様のもとに飛んでいったはずです。

 イエス様は、ユダの裏切りを引き受けて、またペトロの弱さを背負って、十字架に昇っていかれました。そこで、すべての人の罪に対する神様からの刑罰をお受けになりました。イエス様ご自身は罪を犯されませんでしたが、私たちの身代わりになって、神様からの怒りと呪いを引き受けてくださいました。その十字架の上で、私たち人間がもつ罪が贖われます。その十字架のゆえに、神様は私たちに命を与え、ご自分の子どもとして迎え入れ、慈しみのうちに置いてくださいます。イエス様を信じて、イエス様のみもとに戻ってくる人は誰でも、その恵みをいただきます。ペトロはその恵みを受け入れた人です。それに対して、ユダは、その恵みを受け入れず、自分で自分を罰してしまいました。けれども、罪の問題は、自分では処理できません。イエス・キリストしか解決できないのです。

 私たちは、自分で自分の罪を処理しようとするのではなくて、イエス・キリストの十字架に頼りたいと思うのです。私たちには誰にでも、大なり小なり罪の負い目があります。そのときに、頼れる存在が何もないと不幸です。しかし、神様は、イエス・キリストを私たちに与えてくださり、そこに依り頼むように招いておられます。「こんな罪を犯したから、もう私は救われないんじゃないか」と失望することはありません。神様のみもとには赦しがあり、イエス様はあなたが帰って来ることを待っておられるのです。ここにだけ、ここにこそ、私たちの希望があります。