2025年01月19日「ペトロのつまずき」
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ペトロのつまずき
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章69節~75節
聖書の言葉
69ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。 70ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。 71ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。 72そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。 73しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 75ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。マタイによる福音書 26章69節~75節
メッセージ
ペトロは自分の身を守ろうとしてイエス様を否定していったわけですが、その否定の言葉は1回目よりも2回目、2回目よりも3回目と、徐々に激しさを増していきました。最初は、女中が言ったことに対して「何のことを言っているのか、わたしにはわからない」と、ごまかすようなことを言っています。
この1回目のやりとりをよくよく見ていると、ペトロはこの段階ではイエス様のことには直接触れていません。「あなたもイエスと一緒にいた」に対して「何を言っているのかわからない」と、ただ女中の言葉を打ち消し、ごまかしているに過ぎないのです。けれども、実はここに落とし穴があったのです。すなわち、ペトロは女中の言葉を打ち消すことによって、自分がイエス様の弟子であるという責任を放棄してしまったのです。自分がキリスト者である。そのことをごまかしてしまう。この小さな綻びが、やがて大きな落とし穴となって、ペトロをイエス様への信仰から引き離してしまう結果になったのです。一度「自分がキリスト者である」という責任を放棄すると、さらに自分の立場を弁護するために、次から積極的に、意識的にイエス様を否定してしまうのです。
このことは、私たちの日常生活の中でも起こりうることだと思います。日常の信仰生活の中で、何気ない場面で、自分がキリスト者であることをごまかしてしまう。そのひとつひとつは小さなことかもしれませんけれども、その綻びが、やがて大きな落とし穴に広がっていく可能性を、私たちは意識しておかなければなりません。私たちには、特にキリストを証しすることにおいて、弱さを覚えることがあります。イエス・キリストの話が、受け入れてもらえるかわからない。否定されるかもしれない。そのような恐怖を抱くことが、私たちにも起こりえます。初期キリスト教会において、大胆にキリストを証しした使徒パウロでさえ、福音を語ることに恐れを抱いていました。だから神様はパウロに対して「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」(使徒18:9)と励ましたのでしょう。私たちはむしろ、イエス・キリストを大胆に証しするところで信仰が強められ、豊かにされることを覚えたいと思います。
ペトロはつまずいてしまいましたが、しかし彼の歩みはここで終わりではありませんでした。自分の弱さと罪を自覚したペトロは、やがて復活のイエス様に弟子として招かれます。イエス様は十字架で死なれ、三日目に復活されました。そのとき、ペトロは再び、イエス様のみもとに帰っていくことになるのです。復活のイエス様は、自分の罪、自分の弱さを悔いて、立ち返る者を、ご自分の弟子として受け入れてくださいます。そしてもういちど、ご自分を証しするものとして豊かに用いてくださるのです。ここに、私たちの希望があります。復活のイエス様は今も天におられて、私たちをご自分の弟子として招いておられます。私たちがどれだけ弱さを抱えていたとしても、挫折したとしても、再び生かされて用いられる恵みの道が、イエス様のみもとにあるのです。