2025年01月12日「神の子のあかし」

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聖句のアイコン聖書の言葉

57人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。 58ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。 59さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。 60偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、 61「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。 62そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 63イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」 64イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。
あなたたちはやがて、
人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に乗って来るのを見る。」
65そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。 66どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。 67そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、 68「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。マタイによる福音書 26章57節~68節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様がユダヤ人の最高議会で裁判にかけられる場面です。ここには、裁く者たちの偽証(59節)と暴力(67~68節)に満ちています。そのような不正が満ちている状況下で、イエス様は十字架の道筋を歩むために忍耐しておられます。

 61節で神殿に関わる証言が出てきて、大祭司カイアファはイエス様が聖なる神殿を冒涜したという証拠を掴んだと思ったのでしょう。彼は立ち上がり、イエス様に詰め寄ります。

「お前は神の子、メシアなのか」。

この大祭司の問いかけはとても重要だと思います。というのは、ここで問題になっていることは「イエスとは何者か」ということだからです。私たちの信仰というのは、結局のところ「イエスとは何者か」という一点に全てがかかっています。以前、このマタイ福音書16章で弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」とイエス様に対する信仰告白をしたことがありました。あのときのやりとりを再現したかのような問いかけが、ここでなされています。ただし、ペトロのときはイエス様に問いかけられて、ペトロが答えたものでした。ここではイエス様から問いかけられたのではなく、反対に大祭司がイエス様に問いかけています。

 これに対して、イエス様はダニエル書7章を引用しながら答えます。「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」。この御言葉は、イエス様がご自分を神の子として決定的にあかししています。ダニエル書の「人の子」は、人間の子というのではなく神様に等しい存在という意味をもっているのです。

 イエス様は、ご自分を「神の子メシア」と宣言されました。そのことが何を意味するのかと言いますと、それは、イエス様ご自身が全人類を裁く権威をもっておられるということです。父なる神様の右に座って、天地を支配する者であると、ご自分のことを証しされたのです。このことは、言い方を換えると、イエス様はカイアファたちに向かって「お前たちは私に裁かれる側だ」と語ったことに他なりません。

 つまり、私たちはイエス様によって「あなたは私のことを何者だと言うか」と問いかけられる立場にあるということです。カイアファは、「お前が神の子、メシアか」と問いかけました。その問い自体はとても重要です。なぜなら私たちもまた信仰に入る前に抱く問いであるからです。教会に初めて足を踏み入れて、洗礼に至るまでの道のりは、「イエスとは誰か。このお方は、いったい何者か」。そのことを自分に問う道のりでもあります。けれども、その答えは、誰かに何かを言われたからと言って見出せるものではありません。根本的なところでは、私たち一人一人がイエス様に問われなければならないのです。私たちは誰もが、信じて洗礼を受けるときには「あなたは、私のことを何者だと言うのか」というイエス様の問いの前に立たされます。それに対して、「主よ、あなたこそ私の救い主、神の子メシアです」と答えるところに、私たちの幸いがあるのです。