2025年01月05日「聖書の言葉が実現するために」
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聖書の言葉が実現するために
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- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章47節~56節
聖書の言葉
47イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 48イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 49ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 50イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 51そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 52そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 55またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。 56このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。マタイによる福音書 26章47節~56節
メッセージ
イエス様が十字架に引き渡されるために逮捕される場面です。武器を持った人たちがイエス様に手をかけて捕えようとしました。そのときに、51節によりますと、弟子の一人が抵抗したことがわかります。ところが、イエス様は「剣をさやに納めなさい」と仰います。イエス様は、弟子たちが武力で抵抗しようとしたことに対して、ストップをおかけになったのです。
イエス様が武器を納めるようにお命じになった一つ目の理由は、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」からです。もしここで、ペトロの攻撃に始まってみんなが相手に切り掛かっていったならば、まず間違いなく、それが戦闘開始の合図となったでしょう。ペトロの攻撃を皮切りに、一斉に戦いが始まっていく。多くの死者を出す、泥沼の戦闘が始まります。剣に対して剣で戦う。相手が武器を持っているのだから、私たちも武器を持って戦わないと大切なものを守れない。そういう判断は、人の目には常識とされることです。けれども、人類の戦いの歴史を見ても、暴力は暴力を生むばかりです。剣は剣を生むばかりなのです。
イエス様が弟子たちを止めたもうひとつの、そして根本的な理由は、聖書の言葉が実現するためです。イエス様ご自身に、抵抗する力がなかったわけではありません。「お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と言われていますように、神様の側には、その力があったはずでした。けれども、そういう手段を使ってしまいますと、聖書の言葉が実現しなくなるという別の問題が生じるのです。
これがどの聖書の言葉のことを指しているのかは明示されていませんが、おそらくイザヤ書53章を中心にした御言葉のことだと思われます。すなわち、救い主メシアが苦しみを受け、刺し貫かれて死ぬ、という預言の言葉です。大切なことは、救い主が苦しみを受けて死ぬのが、私たちのためであるということです。私たちの心の暗さを全て背負って、私たちの罪を全て背負って、その身代わりになるということです。このことこそが、神様の御心であり、私たちのために用意されたご計画でした。それは、私たちが癒され、罪赦されて、もういちど神様と一緒に歩めるようになるというご計画です。神様に受け入れられて、親が子を慈しむように、神様から愛され、その慈しみを受けて生き生きと歩むためです。
イエス様は、ゲツセマネで「御心のままに」と祈られたように、その神様のご計画に身を委ねる心を整えておられました。ですから、そのためにここで弟子たちに剣を納めさせ、何一つ抵抗せずに自ら捕まっていかれたのです。このことは、人間の目から見ると、一人の男がこの世の法に従って処刑されるために捕まったようにしか見えないかもしれません。けれども、その背後に神様の御計画があることを、イエス様はご存じだったのです。イエス様が逮捕されたという事実。十字架にかかって死なれたという事実。ここに私たち自身の救いを見るかどうかが問われています。