2024年11月24日「御心のままに」
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御心のままに
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章31節~46節
聖書の言葉
36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
(36〜46節)マタイによる福音書 26章31節~46節
メッセージ
イエス様は、悲しみもだえ始められ「わたしは死ぬばかりに悲しい」と仰いました。ここではイエス様は、まことの神であられると同時にまことの人であられました。ここでは、人間としての弱さをあらわにしておられます。
イエス様の十字架の死とは、罪の刑罰としての死でした。ご自分は罪を犯されることはありませんでしたが、私たち人間すべての罪をお一人で背負って、神様の裁きをお受けになりました。それは、神様にさえ見捨てられることを意味します。イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。罪に対する刑罰を、その呪いの死を、お一人で身代わりになって受けなければならなかったのです。その痛み・苦しみは、私たちの想像の範疇を超えています。
イエス様は、この苦しみに向かっていかれるにあたって、備えを必要とされました。それゆえに、静まって父なる神様に祈りをささげるために、このゲツセマネの園にやって来られたのです。
イエス様は、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。「この杯」とは、十字架の苦しみのことです。イエス様がこれから受けようとしておられる苦難と死、多くの人の罪を贖う十字架の死のことです。その苦しみを、できることなら過ぎ去らせてください。つまり、もし可能であるならば、十字架の苦しみを避けた仕方で、罪人の救いを実現させてください、と祈っておられるのです。これが、イエス様の正直な、率直な願いでした。しかし、それと同時に「わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈っておられます。イエス様はご自分の思いを正直に打ち明けると共に、父なる神様の御心を求めて、ご自分の思いではなく、神様の思いが実現するようにと祈り願っているのです。ここには、イエス様の葛藤があります。率直な思いを口にしながら、父に従うという葛藤をしておられます。
二度目の祈りでは「できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」という先ほどの願いはなくなっています。先ほどはご自分の願いと、父なる神様の御心の間で葛藤しておられましたけれども、ここではより神様の御心に重きが置かれていきます。祈りを深める中で、神様の御心にご自分の思いを明け渡していく心備えがなされていったことがわかります。ここではもう、十字架抜きでの救いを願うのではなく、十字架を通して神様の救いのご計画に、聞き従っていくように、その思いを整えておられるのです。
十字架は恐ろしいものだったことでしょう。苦しいものだったことでしょう。その恐れ・悩み・苦しみ・葛藤を抱きながらも、ただ私たちが命を得て救われるために、イエス様はご自分を明け渡してくださったのです。十字架という呪われた死をご自分の身に引き受けてくださったのです。それをしてくださったのは、ただ私たちを愛してくださったゆえです。