2024年11月17日「銀貨三十枚の裏切り」
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銀貨三十枚の裏切り
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章14節~29節
聖書の言葉
14そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
15「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
16そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
(14〜16節)マタイによる福音書 26章14節~29節
メッセージ
この直前の御言葉には、非常に高価なナルドの香油をイエス様にささげた一人の女性について記されていました。彼女は、売れば300デナリオン以上するという高価なものを、イエス様にささげました。おそらく彼女にとって、今の自分にできる最大限のものを、イエス様にささげたものだと思います。ここでは、イエス様の十字架の備えとして高価なものをささげた女性と、イエス様を十字架にかける手引きをしてお金をもらうユダ。その両者が対照的に描かれます。おそらく、福音書記者のマタイはこれらを意図的に連続して描いているものと思われます。一方は、イエス様の十字架に救いを見出してイエス様に全てをささげる人と、他方は、イエス様を拒否する人です。マタイは、香油をささげた女性と、イエス様を売り渡したユダを連続して描くことで「あなたはどちらですか」と私たちに問いかけています。「あなたは、イエス様に救いを見出して全てをささげるのですか、それとも、イエス様を拒否して救いの恵みを拒みますか」。これを読む私たちもまた、イエス様にどれほどの価値を見出すのかが問われています。人生の全てをささげるに値する、そうせずにはいられない救い主として見出すのか、何か自分の欲しい対価が得られれば簡単に手放すことのできる、ただそれだけの存在なのか。イエス様の十字架は、人を大きく分ける分岐点になるのです。 イエス様は、自分の持てる全てをささげる女性の姿を見て「この人はわたしによいことをしてくれたのだ」と言って心から喜んでくださいました。そうしてイエス様からの祝福をいただく人は、どれほどの銀貨よりも価値のある、救いの恵みをいただくことができます。
イエス様は、信仰の弱い私たちのために十字架にかかって死なれました。私たちには、イエス様を十字架にかけて殺した自分の罪を見つめ、悔い改めて立ち返ることが求められているのです。銀貨30枚のためにイエス様を引き渡したユダのようにではなく、自分の全てを注いで香油をささげたあの女性のように、どこまでも、愛するイエス様と共に歩むことが求められているのです。その道にこそ、イエス様からの救いの恵みをいただいて生きる、私たちの幸いがあります。
家族同然のように食事を共にした弟子たちの中から、裏切り者が出るという事実。その事実は、イエス様が経験なさった苦しみが、どのようなものだったかを示しています。人に裏切られるという痛みは、深い傷となって残ります。イエス様が経験された苦しみは、十字架の上での肉体的な苦しみだけではありませんでした。裏切りという、その痛みをも引き受けて十字架へかかっていかれるのです。そのように、イエス様の知らない痛み・苦しみはどこにもありません。
全ての痛みを知るお方が、今もなお私たちの大祭司として、天にあって私たちの痛みに寄り添い、命を与えてくださいます(ヘブライ4:14-16)。このイエス・キリストをしっかりと見つめて、愛するイエス・キリストと共に、どこまでも歩んでいきたいと願います。