2024年10月27日「信仰による義」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
(21-26節)ローマの信徒への手紙 3章9節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 この手紙を書き記したパウロは、「今や信じる全ての人が、ただイエス・キリストによる贖いの御業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」という、いわゆる「信仰義認」を語っています。

 この「信仰義認」を受け止めるにあたって、大切なことが二つあります。一つは、24節の「ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」という約束です。この「贖い」という言葉は、奴隷を自由にするために身代金を払う行為から生まれた言葉です。つまり、単に解放されるというのではなくて、実はそのために支払われた代価があるということです。私たちを罪の奴隷状態から解放するために、神様が支払ってくださった犠牲があるというのです。神様が私たちのために支払ってくださった代価。それこそが、独り子であるイエス様の尊い命でした。イエス様は、十字架の上で命を投げ出してくださいました。そのイエス様の流された血こそが、私たち罪人の身代金となったのです。その犠牲は、世界中のどんな財産を集めても工面できないほど大きなものです。けれども、神様は私たちを「生かす」ために支払ってくださったのです。イエス様の命を犠牲にしてでも、「あなたを生かしたい」。そんな神様の心が、ここにあります。その贖いは「恵みにより無償で」と書かれてあるように、神様からの一方的なプレゼントとして私たちの前に差し出されています。

 もう一つは、イエス様の「贖い」が神様の怒りを宥める意味をもっていたということです。神様は、イエス様を十字架につけることで、罪を償う供え物とされました。「罪を償う供え物」とは、人間の不義に対して怒っている神様の怒りを宥めて赦しをいただくという意味があります。ここではイエス様ご自身を「宥めの供え物」と言うことによって、かつて赦しのために動物の血が流されたように(レビ記16章)、私たちの罪が赦されるために、イエス様の血が、あの十字架の上で流されたのだということを伝えようとしているのです。

 人間の罪に対して、神様は確かに怒りを現しておられました。しかし怒りを現しながら、なおもそれを見逃して来られたのは、イエス様の十字架に、すべての怒りと裁きを集中させるためです。神様の正義は、十字架のイエス様の上に貫かれるのです。神様と私たちとの間に、十字架が立てられたのです。イエス様が間に入ってくださり、十字架を立ててくださったことによって、神様と私たちとの関係が回復されたのです。

 神様と私たちとの関係が回復されるとはどういうことか。それは、私たちが神様の子どもとして迎え入れられるということです。もはや滅びに至るしかない罪人としてではなく、子どもが親を信頼するように、大胆に神様の胸に飛び込んでいけるということです。神様の恵みのもとで、私たちは神様が与えてくださるものを、受け取ることが許されている。親が子を慈しむように、神様は私たちを大切に受け止めてくださる。そのような関係に変わったのです。