2024年10月20日「魂の医者、イエス・キリスト」
問い合わせ
魂の医者、イエス・キリスト
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マルコによる福音書 2章13節~17節
聖書の言葉
13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 15イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 16ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 17イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マルコによる福音書 2章13節~17節
メッセージ
古代から、イエス・キリストが「魂の医者」であるというイメージが受け継がれてきました。それは、先ほど読んだ「マルコによる福音書」2章のうち、特に17節に基づいています。
17イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ここでイエス様は、ご自分のことを「医者」と重ねておられます。イエス様が言っておられるように、一般的にお医者さんの仕事とは、病気を治療することです。医者が何のためにそこにいるのか。その目的は、目の前にいる人の病を癒すことにあります。イエス様は、その医者と同じような働きをするのだということです。
では、医者が病人を治療するのと同じように、イエス様はどんな人を治療するのかというと、ここでは「罪人」だと書かれています。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエス様の目的は、罪人を招くことにあるのだと言うのです。ある人が抱えている罪を背負って癒す。そんな独特な働きをされるゆえに、イエス様は「魂の医者」と言われるのです。 聖書の語る罪とは何か。それを結論から申し上げると、「愛せない」というひとことにまとめられます。「愛することができない」それこそが「あなたの魂を蝕む病だ」と仰るのです。私もまたそうですが、みなさんもこれまでの人間関係などを振り返ってみると、「愛されなかった」ということもあれば、反対に「愛せなかった」ということもあるのではないでしょうか。ある人のことを、大切にしたいと思っていても傷つけてしまうことがあります。反対に、傷つけられることもあります。特に、家族や恋人など、距離の近い相手と接する時ほど、「どうして自分のことを理解してくれないのだろう」と怒りを覚えることさえあります。愛が破れているところでは、人間関係の疲れを覚えるものです。
また、「愛せない」という病は、社会的な悲惨を生み出します。学校で「いじめ」があったことが報道されたり、職場などでハラスメントの問題が報道されるのを目にすることがあります。戦争は、「愛せない」という病が生み出す最も悲惨な症状です。こういう社会に取り巻かれて、誰しも「愛せない」という罪を多かれ少なかれ抱えています。「それは人間が誰しも抱えている病なのだ」ということなのです。そのような私たちに対して、イエス様は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためなのである」と語りかけておられるのです。つまり、「愛せない」という病を抱えた私たち人間を招いて健やかな人生に導くことが、イエスの使命であり、目的です。礼拝の中で私たちが出会うのは、そういう癒し手であるイエス・キリストなのです。