2024年09月08日「十人のおとめのたとえ」

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十人のおとめのたとえ

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 25章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」マタイによる福音書 25章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 世の終わりのとき、イエス様はこの地上に再臨される。このように言われると、なんだか現実感がないような印象をもたれる方もあるかもしれません。「再臨(世の終わり)と言われるけれども、自分が生きている間には来ないだろう」。そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、イエス様が「あなたがたはその日、その時を知らない」と言われるのは、「いつ来るかわからないほど遠い未来のことだ」ということではなくて、今その時がきてもおかしくない、と私たちが弁えるためです。「その時」になってから慌てても、手遅れになってしまう。そのひとつの例が、今日の御言葉で教えられているのです。

 主イエスが「再び来る」と言われたその「時」は、実際思っている以上に「すぐ来ないのではないか」「遅れているのではないか」。そのような問いは、教会の歴史の中で昔からありまして、たびたび議論されることでもあります。この例え話の中では、花婿は遅れて登場しましたけれども、では、実際、主イエスが「再び来る」と言われた再臨の「時」は遅れているのでしょうか。

 …確かに、一方で聖書は、キリストが「速やかに」訪れることを語っています(Iペトロ4:7、ローマ16:20など)。他方で、今回のように、花婿が遅れて到着しているかのような描写もまた聖書にはあります。

 しかしながら、主イエスの再臨が「遅れている」とか、約束が実現しないまま終わるということはありえません。そもそも「遅れている」という表現自体が、私たち人間の側の主観に過ぎません。つまり、私たち人間の側が、再臨について、「きっとこの時だろう」という主観的な時間設定をしてしまって、その基準に照らして「遅れている」と言っているに過ぎないのです。私たちは、自分の思いで再臨が「遅れている」と認識するのではなくて、そこに神様のご計画があることを確信して、その神様のご計画を信頼して待ち望みたいと思うのです。

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(IIペトロ3:8~9)

「あなたがたのために忍耐しておられる」と、それは「一人も滅びないで皆が悔い改める」ためだと言われます。再臨は「遅い」のではなくて、むしろ、主なる神様は悔い改めの場を備えてくださっているのです。悔い改めの場が、備えられている。それは、私たちにとって何を意味するかと言いますと、まだ福音を聞いていない人たちに対する福音宣教の場が備えられていて、私たちがますますこれに一生懸命に向き合うことを促しておられる、ということに他なりません。私たちの主観で「遅れている」と言うのではなく、神様のご計画に参与することを主は促しておられるのです。