2024年09月01日「責任的に生きる」
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責任的に生きる
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- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 24章45節~51節
聖書の言葉
45「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
46主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
47はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
48しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
49仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
50もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」マタイによる福音書 24章45節~51節
メッセージ
この譬え話での「主人」とはイエス様ご自身のことです。この譬え話の主人は、旅に出かけて家を留守にし、やがて帰ってきました。これが、イエス様の昇天と再臨を示しています。復活のイエス様は、弟子たちの見ている目の前で、天に昇っていかれました。しかし、やがて世の終わりの時に再びこられます。再臨されます。
主人であるイエス様に、責任の一部を託された「しもべ」とは、私たちキリスト者のことです。前半で、忠実な僕は思慮深く働き、いつでも主人が帰ってきても良いように家を管理していました。これが、キリストの再臨に備えるキリスト者の姿なのだと、イエス様は語っておられるのです。したがって、今日の御言葉は全体で、いつ再臨の時がきても良いように、「目を覚まして」歩むことを教えているのです。
私たちは、イエス様が再臨されるまでの今の期間、その責任の一部を託されています。イエス様が本来持っておられる責任と使命とは、預言者、祭司、王の働きです。イエス様は、預言者として、その地のお働きの中で神様の御旨を語られました。また今でも、教会の説教を通して、ご自分を現しておられます。また「祭司」として、ご自分をささげることで、神様と私たちとの間に立って、その関係を回復させてくださいました。さらに、イエス様は「王」として、私たちひとりひとりの信仰が終わりの日までしっかりと保たれ、祝福に入ることができるように導いてくださいます。そのようなイエス様の務めが私たちにも託されているということです。
私たちには預言者のように、神様の恵みを証しして人に伝えることができます。祭司のように、神様と隣人の間に立って、誰かのために執りなして祈ることができます。王のように、隣人を神様の祝福へと招く導き手として、その務めを果たすことができます。もちろん、私たちが行う務めとは、イエス様がしてくださったことと全く同じではありません。私たちは神様の御心を完全に理解したわけではなく、祈って御心を尋ね求めながら歩みます。また私たちはイエス様と全く同じ十字架を背負うわけではありません。罪から贖う十字架を背負うことができるのは、ただお一人、イエス様だけです。しかし「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰ったイエス様にしたがって、私たちはそれぞれの務めを果たします。さらに、私たちはこの世界をふさわしく管理する役割が与えられていますが、その背後に神様の支配と導きがあることを忘れてはなりません。
けれども、私たちが委ねられた務めを一生懸命に果たしているならば、いつイエス様が再び世に来られたとしても、そんな私たちの姿をご覧になるのです。そして、「よくやった!」と言って、さらに大きな祝福と喜びを与えてくださるのです。そのことを今日、イエス様は「言われたとおりにしているのを見られる僕は、幸いである」と語っておられるのです。