2024年08月25日「目を覚ましていなさい」

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目を覚ましていなさい

日付
説教
金原堅二 牧師
聖書
マタイによる福音書 24章36節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイによる福音書 24章36節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は42節で「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と警告しておられます。私たちには、世の終わりがいつのことなのかを特定することは不可能であるのだから、目を覚まして、いつその時にが来ても良いように備えをしているように、と教えておられるのです。

 ここで言われている「目を覚ましていなさい」とは、私たちの内側にある心の目、信仰の目を覚ましていることです。聖書は、神の掟を忘れ、本当に重要なものを見つめない、そんな不信仰な人間の姿のことを、「目があっても見えない民」あるいは「目覚めることのない民」などと言って、盲目や眠りに例えて語ることがあります(イザヤ43:8など)。

ノアの物語において、多くの人々が洪水に飲まれる結果になってしまったのは、何よりもその人たちが「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」(38節)していたからなのでした。つまり目の前の日常生活に心奪われて、神の言葉に耳を傾けることがなく、神様の御心に目を向けることがなかったからなのです。神様の裁きから目を背けて、むしろ「そんなものはない」と嘲笑って、神の言葉から耳を閉ざしてしまったからなのです。このようにして神様を見失っている姿こそが、「霊的盲目」であり「眠っている」状態なのです。

 従って、イエス様が「目を覚ましていなさい」と仰ったとき、そこで伝えようとしておられることは、神様を見つめる信仰の目を開いていることです。そして神様の言葉である御言葉を聞き、受け止める耳を持っていることなのです。

 とはいえ、「目を覚ましている」と言われましても、いつでも緊張して身構えていなければならない、ということであれば、私たちとしては疲れてしまうことがあるかもしれません。一方で、日常が平穏だからと言って、キリストの再臨を忘れてしまうことには危険性があります。しかし他方で、再臨をいたずらに煽って、休むことができないほどに緊張して身構えてしまうことも、それは教会が健やかな状態だとは、私は思いません。

 人の子、イエス様は、思いがけないときに来る、と言われています(44節)。そんなイエス様をお迎えするにあたって、私たちに必要なことは、いつその時が来ても良い状態にすることです。緊張して、寝るのを我慢して、ガチガチになって待つのではありません。いつイエス様が来られたとしても、喜びのうちにお迎えすることができるような備えをすることなのです。私たちが、主の日ごとに礼拝をささげ、神の言葉に耳を傾けるのは、私たちが目を覚ましているためです。

 我慢して肉体的に起きている必要はありません。緊張してガチガチになる必要もありません。むしろ、イエス・キリストを通して神様から与えられた祝福を、聖書が語る通りに受け止め、その恵みを喜び楽しむことが、私たちにとって最も必要な、十分な備えなのです。