読者は悟れ
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- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 24章15節~28節
聖書の言葉
15「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
16そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
17屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
18畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
19それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
20逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
21そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。
22神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。
(15〜22節)マタイによる福音書 24章15節~28節
メッセージ
ダニエル書に、「憎むべき破壊者」と呼ばれる人物についての預言がいくつか含まれています。それは、直接的には紀元前2世紀に歴史上登場した、シリアの王アンティオコス・エピファネスという人物のことだと思われます。彼がしたことは、宗教的迫害です。異教の神であるゼウスの像をエルサレム神殿に建て、さらに、ユダヤ教の中では汚れた動物とされた豚を、神殿の祭壇で焼いてささげたのです。そのようにして、聖なる場所である神殿を汚したわけです。「憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つ」ということが、文字通り起こったのでした。
このことが起きたのは、旧約聖書と新約聖書の間の時代です。ですからイエス様がここで「憎むべき破壊者」と言ったとき、アンティオコス・エピファネスの出来事はもう終わったことでありました。けれども、この御言葉を聞いたとき、当時の読者はただちにエピファネスの出来事を思い起こしたはずです。神殿を汚そうとする者が、再び現れる。そのとき、自分たちは大きな苦難を受けることになる。読者は、そのことを悟らなければならなかったわけです。「憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ」のは、何も1回きりのことではない。再び大きな苦難にさらされることを覚えておかなければならない、ということです。
イエス様は神殿の崩壊になぞらえて、苦難を予告しておられます。神殿の崩壊そのものについては、実はこの後、紀元70年に実際に起こりました。ユダヤ人たちは実際に、歴史の中で大きな苦難を経験したのです。そのため、特に神殿に関して言えば、紀元70年に破壊された時に、このイエス様の御言葉は文字通り実現したと言われます。けれども、今日のイエス様の御言葉は、「このときだけのものなのか」と言えば、そうではないと思います。実際に歴史の中で、キリスト者たちは繰り返し苦難を経験することになるのです。
キリスト者たちもまた、苦難そのものは経験します。その苦しみの期間が長ければ、私たちはとても耐えられないかもしれませんが、しかし、神様は私たちのために、その期間を短くしてくださる、と言うのです(22節)。
前回、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という御言葉がありました。「最後まで耐え忍ぶ」という日本語だけ見ると、どこか最後は自分の力で踏みとどまって、その頑張りの結果、救いに入るような印象をもたれるかもしれません。けれども、実際はその背後に神様の愛に基づく支えがあるからこそ、私たちはどこまでも、神様の愛のみもとで留まり続けることができるのです。
神様は真実なお方であって、私たちを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(Iコリント10:13)。試練に耐えられるように、苦しみの期間を短くしてくださる。そのように配慮してくださるのです。ですから、私たちは、私たちを救いの完成へと導いてくださる神様の配慮の中で、ただ一人の救い主イエス・キリストを見上げ続けていることが大切なのです。