2024年07月07日「主の愛の叫び」
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主の愛の叫び
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 23章25節~39節
聖書の言葉
37「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
38見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
39言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」マタイによる福音書 23章25節~39節
メッセージ
「エルサレム、エルサレム」。37節以下では、イエス様の悲痛な叫びの声が記されています。これはイエス様の言葉として記されていますが、むしろ旧約聖書以来の神様のお姿をよく表している、と言うことができます。「めんどりが雛を集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」。鳥の赤ちゃんである雛は、親鳥に守ってもらわなければ生きることができません。そのことは、親鳥が一番よくわかっています。ですから、一生懸命に守ろうとします。雛はまだそのことがよくわからないものですから、ひょこひょこと出て行ってしまいますが、それを親鳥は何度も何度も自分の羽の下に集めるのです。
旧約時代を通じて、主なる神様は、預言者を遣わし、イスラエルを御自分のもとへ何度も何度も集めようとされました。そして、最後に、自らが人となって、イスラエルの人々のもとへ来てくださったのです。主イエス・キリストとして、子ろばに乗る王として、エルサレムに入られたのです。しかし、人間は鳥の雛のように素直ではありませんでした。神の民は、招きに応えず、自分の思いを貫いて生きようとしました。具体的には、エルサレムに住む人々はイエス様のもとへ来ようとはせず、それどころか、約束のメシアであるイエス様をも殺そうとするのです。その結果、神の家である神殿は「見捨てられ荒れ果てる」と言われるのです。38節は、そのような人間の行く末を示しています。
けれども、神様が用意された私たち人間の物語は、そうした滅びで終わるものではありませんでした。イエス様の厳しい叱責と呪いの言葉の背後には、私たち人間が立ち返って、祝福のうちに生きるように招く目的があるのです。イエス様は、今、悲痛な叫びをもって、人が滅びゆくことへの嘆きを表しておられます。その内側には、めん鳥が雛を集めるかのように、何とかしてご自分のみ翼のもとに私たちを集めようという愛の御心があります。イエス様は、どうにかして、ご自分のみ翼のもとに私たちを抱きかかえようとしておられるのです。イエス様はこの数日後に十字架にかかって死なれます。ある説教者は、十字架のイエス様のお姿について、「まるで鳥が翼を広げてその下に雛を集めるように、両手を大きく広げて、私たち罪人を守ろうとするお姿のようだ」と語っています。確かに、イエス様は両手を広げて磔にされました。自分を守るためではなく、親鳥が大切な雛を守るために、一番無防備な、手を広げたままの姿で十字架につけられました。その、イエス様のお姿が、私たちを罪と死の滅びから救い出すのです。
私たちは、イエス様が大きく両手を広げておられる十字架のもとに帰っていきたいと思います。私たちが偽善から解放される道は、十字架の主イエス・キリストのもとにあります。このイエス様を「私の救い主」としていただく道にこそ、祝福があるのです。ここにこそ、災いではなく祝福を、そして不幸ではなく幸いをいただく道があるのです。