2024年06月16日「正義、慈悲、誠実」
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正義、慈悲、誠実
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 23章13節~39節
聖書の言葉
13律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 14†
15律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
16ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。(中略)
23律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 24ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
25律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 26ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
27律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 28このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
29律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。 30そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。 31こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 32先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。 33蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
(13〜33節、抜粋)マタイによる福音書 23章13節~39節
メッセージ
イエス様のまとまった説教が収められています。「不幸だ」と繰り返し語られていることが印象的です。かつて語られた、山上の説教(5章〜)においては「さいわいだ」と繰り返されていました。「さいわいだ」と言われる人々とは、何か自分の中に能力をもっているような、強い人のことではありませんでした。むしろ、自分の中に頼るものがない人のことが「さいわいだ」と言われていたのです。なぜなら、自分の中に頼るものがない人は、ただ神様の恵みにより頼むしかないと知って、イエス・キリストのみもとに救いを求めてやってくるからです。そうやって、ただ神様の憐れみに全幅の信頼をおいて、キリストのもとに来る人に対して、イエス様は「天国はその人たちのものである」と言っておられます。
対して、神様を拒絶する人のことが「不幸だ」と言われます。人生からイエス様を締め出してしまう人のことです。イエス様に言わせると、この人たちには「天国がない」。天国に入れないゆえに「不幸だ」と言われているのです。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、今日の御言葉の中で繰り返されている「不幸だ」という表現は、そのまま発音すると「ウーアイ」という言葉です。「ウーアイ」。イエス様は「ウーアイだ」「ウーアイだ」と言っておられるのです。その言葉の響きからも感じられるかもしれません。これは、もともとはうめきの声でした。感嘆詞なのです。「ああ、不幸だ!」「ああ、わざわいだ!」という感情のこもった、うめきの声、嘆きの声なのです。イエス様は嘆いておられるのです。なぜなら、先ほどまでお話ししたような人間の態度の上には、裁きを免れないからです。イエス様は「ウーアイだ」「ウーアイだ」と言って、文字通りうめいて、嘆き悲しんでおられるのです。「裁いてやる!」といった脅迫ではなくて、彼らが神様を見失い、滅びへ向かっていくことを嘆き悲しむ御言葉なのです。それは、イエス様の本心が、私たち人間が神の身元に立ち帰り、神様のみもとで、命に生きることにあるからです。
神様から離れてしまう心。神様を遠ざける人間の心。それは、なにも律法学者やファリサイ派の人々だけに限った話ではないでしょう。偽善は、いつの時代でも、私たち信仰者の中に生じてくることなのです。生活のどこかで、神様を遠ざけてしまう。人生のどこかで、神様を締め出してしまう。そんな私たちの「不幸な」姿に、イエス様は思いをもって、それをご自分の苦しみとしながら、「不幸だ、災いだ」と言っておられます。
そして、この御言葉を語ったわずか数日後に、イエス様は十字架にかかって死なれるのです。私たちのもつ罪をすべて背負って、それを十字架の上で贖うためです。その、イエス様の十字架は、私たちが災いと不幸の中で滅びに至るのではなく、幸いをいただいて生きるためにあります。私たちが祝福をいただいて生きるために、イエス様は、この嘆きを背負いながら、十字架にかかっていかれたのです。