2024年06月09日「ただ一人の教師」

問い合わせ

日本キリスト改革派 滋賀摂理教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。マタイによる福音書 23章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 23章には、律法学者やファリサイ派の人々に対する批判の言葉が、ひとつのまとまった説教の形で記されています。彼らがしていたことは、背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せることでありました(4節)。より具体的には、ある律法を守るために、聖書に書いてもいないたくさんの規則を付け加えて、規則を守ることを人に押し付けていたのです。そうやって重い荷物を他人に背負わせるやり方が、よくありませんでした。なぜなら、聖書が本来持っている神様の約束と福音に対して、喜びを失わせていたからです。

 直前の箇所で、イエス様は律法の精神といえる、聖書の中心的で最も大切な戒めを教えてくださいました。全身全霊で神様を愛し、隣人を自分のように愛することです。この、神様と隣人への愛を失ってしまうと、聖書の全体はわけがわからなくなります。彼らは、聖書の御言葉をよく読んで、知識としては誰よりも知っていたかもしれませんが、愛することの実践に欠けていたのでした。イエス様が「見倣ってはいけない」と言っておられる彼らの態度とは、愛することを抜きにして、相手に重荷を負わせるだけの彼らの態度なのです。

 また、彼らの信仰は、人に見せるためのものでした。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする(5節)」とは、いずれも本来は神様の御言葉を深く心に覚えるための実践だったのに、それを目立たせることによって、自分がいかに信心深いかをアピールしていた、ということです。突き詰めれば、彼らの問題とは、神の栄光のためではなく、自分の栄光のために行なっている点にあったのです。これに対してイエス様は「人間ではなく、神様を見上げて歩むべきだ」と言っておられるのです。

 御言葉は、表面的に受け取るだけではおかしな実践になってしまうことがあります。私たちもまた、今日の御言葉を読んで「では彼らの反対のことをすればよいのだ」と受け取ってしまうと、それもまた表面的な受け止め方になってしまうのです。具体的には「粗末な服装をしたり、下座に座ったり、先生と呼ばれることを拒否」したら、それでよいのか。決してそんなことはありません。なぜならそれもまた人に見せるものだからです。何が本当に、神様ご自身を重んじることになるのか。そこを考えなければ、歪んでしまうわけです。

 私たちキリスト者にも、人に見せるための信仰になってしまう危険性はいつもあります。そんな私たちが、信仰者として正しく歩むには、どうしたらよいのか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様は、へりくだることにおいても、仕えることにおいても、私たちの模範であり、教師です。イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって、私たちの重荷を担ってくださいました。最大の重荷である罪を担ってくださいました。しもべとなって、十字架を負うことによって、仕えるお姿を示してくださいました。私たちは、このイエス・キリストのお姿を見つめて、私たちもまた互いに仕え合うのです。