2024年06月02日「最も重要な教え」
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最も重要な教え
- 日付
- 説教
- 金原堅二 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 22章34節~46節
聖書の言葉
34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38これが最も重要な第一の掟である。 39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
44『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい、
わたしがあなたの敵を
あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
マタイによる福音書 22章34節~46節
メッセージ
今日の御言葉には、イエス様が「最も重要な教え」として二つのことを挙げておられます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。それから「隣人を自分のように愛しなさい」。聖書全体はこの二つにまとめられる、と言うのです。イエス様は「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つを同時に語られました。この「二つ同時に」は、重要です。二つのうちのどちらが欠けても、両方が見えなくなってしまうからです。
神様を愛すること、そして隣人を愛すること。これらは最も重要な「掟」あるいは「教え」と言われていますけれども、これは教会ですとか、信仰者の間だけに限らず、およそ全ての人間にとって、本質的に重要なことではないか、と私は思います。愛し、愛されて生きること。私たち人間の内側には、絶えずこのことに対する飢え渇きがあるのではないか、と思うのです。みんなが、この通りに生きているならば、こんなに良いことはない、と言える。けれども、それと同時に、この通りにできない現実があるからこそ、私たちは苦しむわけです。愛したくても愛せない。あるいは、こちらが愛を示していても、相手に届かない。愛しているという思いがうまく伝わらなくて、予想外の反応が返ってくる。そういう現実を前にする時に、私たちは苦しみ、葛藤することがあるのだと思うのです。
「こんな私じゃダメなのかなぁ」と落ち込むことがあるかもしれません。そこで私たちは、自分たちの弱さ、罪の現実を知るのではないか、と思います。
…ただ、神様を愛し、人を愛する生き方が律法の御言葉に示されていることは、確かに私たちを生かすために神様が与えてくださった恵みに他なりません。しかし忘れてはいけないことは、律法の御言葉を私たちが行うことによって、私たちの魂が救いに至るわけではない、ということです。人が救われるのは律法を行うことによってではなくて、イエス・キリストの福音によるのです。
イエス様は十字架に向かっていかれ、神様を愛し、その御心にどこまでも従い抜かれました。同時に、私たち一人一人を愛し、その魂を生かすために、ご自分の身をささげ、へりくだって私たちに仕え尽くしてくださいました。その意味で、神様を愛し、隣人を愛するという、聖書の最も大切な教えを完全に満たしたお方はイエス・キリストの他にはありません。しかし、そのイエス様のおかげで、私たちは失敗したとしても、不十分であったとしても、神様の御前に義とされ、まるで成長途中の子どもを見守るように、神様から見守られて、教えられながら、成長させられながら、神様と隣人を愛する生き方へと導かれていくのです。このような、イエス・キリストの模範があり、救いの恵みを既に与えてくださった上で、神様は、「この生き方にこそ幸いがあるのだ」と、私たちを招いてくださるのです。だから諦めてしまわないで、この幸いな生き方を、私たちから広げていくことができるように、喜んで神様と隣人への愛に生きていきたいと思うのです。
(追記)
御言葉の後半、41節以下では、イエス様ご自身がファリサイ派に質問しています。
この議論は、いちど読んだだけでは意味がわかりにくいかもしれません。この質問は、「イエスとは誰か」ということを正しく捉えるためになされたものです。イエス様はダビデの子孫として、聖書が預言する約束の子としてこの地上にお生まれになりました。しかし、単に血筋において「ダビデの子孫」だというだけではなくて、イエス様は神の子である、という点を示そうとしておられます。
イエス様に「メシアのことをどう思うか」と問われて、ファリサイ派の人たちは「ダビデの子です」と答えました。その答えにあるように、イスラエルを救うメシアがダビデの子であることは、ユダヤ人ならみんな承知していました。
当時の人々がダビデの子であるメシアに期待していたことは、地上のイスラエル王国の再建でした。今、イスラエルを支配しているローマ帝国を打ち倒し、イスラエルの王国を建ててくれるリーダーを期待していたのです。けれども、実際のイエス様が打ち立ててくださる神の国は、地上の王国とは違っていましたし、剣によって人を救うものでもありませんでした。メシアが単なる人間であれば、できることと言えば確かにローマの支配を打ち倒す、ということだったかもしれません。けれども、イエス様は人間であると同時に神の子であられました。その意味で、イエス様とは、人間が人間に期待する以上のことを実現するメシアであったのです。
44節でイエス様が引用しておられるのは、詩編110編1節の御言葉です。それはダビデの詩編でありますが、その中でダビデは自分の子孫のことを「主」と呼んでいることに注目しておられます。先祖のダビデが、どうして後代の自分から出る子孫を「主」と呼んだのか、と問いかけることによって、救い主は単に「ダビデの子」というだけ、地上のつながりで生まれる人間というだけではなく、神の御子であって、人が期待する以上のことを成し遂げるお方であると、示されたのです。
イエス様は、ダビデの子であると同時に、神の子であられました。まことの神であると同時にまことの人間であるという、不思議なメシアでした。
このことから、何が言いたいのかというと、私たちが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の戒めを心に覚えて、神様を愛するとき、それはすなわち、まことの神であるイエス様を愛することと同じ意味をもっている、ということです。さらに「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の戒めを守るときにも、それはまことの人であり、私たちの友となってくださったイエス様を愛することと同じ意味をもっているのです。
つまり、私たちが、本当に心から神様と隣人を愛する生き方をしていこうと思うならば、イエス様を全身全霊で愛することを必ず通る、ということなのです。イエス・キリストにおいて、神様を全面的に愛することと、隣人を全面的に愛することは実現する。イエス様がそうしてくださったように。それゆえ、神様と隣人への愛は、私たちの救い主であるイエス・キリストを愛することを根本にもっていて、そのイエス様の愛を源にすることによって、私たちの内側から溢れてくるものなのです。